第四十帖(811帖)

遠慮は要らん、分からん事は神示に聞くがよいぞ、そなたは一足飛びに二階に昇りたい気持ちが抜けない、何事も一段ずつ、一歩ずつ進まねばならん、それより他に進み方は無いのじゃぞ

先ずそなたの中にいる獣けものを言向ことむけ合わさせねばならんぞ、よく話し、教え、導かねばならん、獣を人間と同じにしようとしてはならん、獣は獣として導かねばならん、金は金・鉛は鉛ぞ、鉛を金にしようとしてはならん、鉛は鉛として導かねばならんぞ、浄化とはその事ぞ

世は七度の大変わり、いよいよの段階に入ったら、何が何だか、我よしの人民にはいよいよ分からなくなり、焦あせれば焦る程深みに落ち込むぞ、心の窓を大きく開いて小さい我われの慾よくを捨てると、遠くが見えて来るのじゃ

見えたら先ず自分の周囲に知らせねばならん、知らせる事によって次の道が開けて来るのじゃ、自分だけでは嬉し嬉しとならん、嬉しくないものは弥栄えしないぞ

死ぬ時には死ぬのが弥栄えぞ、遊ぶ時は遊ぶが良いぞ、冬になったら冬ごもりぞ、言葉=言と時と、その順序さえ心得て御座れば、何をしても、何を話しても、何を考えても良いのじゃ


第四十一帖(812帖)

そなたはいつも深刻な顔をして考え込んでいるが、考え方にも幾通りも御座るぞ、考えは迷いと申してあるのは、そなたの様な場合ぞ、そなたは苦に向かい苦に勝った積りで苦を楽しんで御座るが、苦とは曲がる事ぞと知らせてあろうが

苦を作り出してはならんぞ、苦を楽しむより楽を楽しむ心高いぞと知らしてあろう、苦しむと曲がり、楽しむと伸びるぞ


第四十二帖(813帖)

未来に燃える事が現在に生きる事であるぞ、そなたは現在に生きる努力が足らん、夢ばかり追っていては泡沫うたかたじゃ

そなたは先祖に対する考え方が間違っているぞ、先祖はそなたではないか、地下にあるそなたの根が先祖でないか、根のない草木はすぐ枯れる道理どうりじゃ、先祖は家を継いだ兄が祀まつっているから、自分は先祖は祀らないでもよいのじゃと申して御座るなれど、よく考えて下されよ、根から芽が出て幹となり枝が栄えるのと同様ぞ、枝には根は要らんと申すのと同じような間違いであるぞ、分家しても先祖を祀らねばならん、先祖を疎おろそかにするでないぞ、気を付けてあるでないか


第四十三帖(814帖)

そなたはまだ方便を使っているが方便の世は済んでいるのぞ、方便の世は済んでほうべんの世となり、そのほうべんの世もやがて終わるぞと知らせてあろう

方便の教えとは横の教え、イロハの教え、平面の教えの事ぞ、教えではどうにもならんギリギリの世となっているのぞ、仏教もキリスト教も回教もみな方便でないか、教えはみな方便じゃ、理みちでなくてはならんぞ、変わらぬ太道たいどうでなくてはならんぞ、理とは三界を貫く道のことぞ、宇宙に満ち満つ「・」のあり方ぞ、秩序ぞ法則ぞ、神の息吹きぞ弥栄えぞ喜びぞ、分かったか


第四十四帖(815帖)

この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我けがをしたりする事がよくあるなれど、それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭かりぜにの清算をさせられているのじゃ

借りたものは返さねばならん道理じゃ、損も良い、病気も良いぞと申してあろうが、ここの道理もわきまえず、理屈申しているが、そんな人民の機嫌取りする暇ひまは無くなったから、早く神心になって下されよ

そなたは祈りが足らんぞ、祈りと申すのは心で祈り願う事では無いぞ、実行せねばならん、地上人は者としての行動をしなければならんぞ、口と心と行と三つ揃わねばと申してあることを忘れたか


第四十五帖(816帖)

誠に祈れと申してあろう、誠とは〇12345678910の事と申してあろう

ただ心で祈るばかりでは自分で自分を騙す事になるのじゃ、自分を偽いつわる事は神を偽る事となるのじゃ、マコトで祈れば何事もスラリスラリと叶かなう結構な世ぞ


第四十六帖(817帖)

考えていては何も成就せんぞ、神界と交流し神界に生き、神界と共に弥栄えすれば良いのじゃ、人間だけの現実界で処理しようとするのが今までの考えじゃ、今までの考えでは人間の迷いぞと申してあろうがな

迷いを払って真実に生きよ、みたま鎮しずめじゃ、加実かみ鎮めじゃ、そなたは信仰のあり方を知らんぞ、長い目で永遠の立場からの幸いや歓喜がお蔭であるぞ、局部的一時的には嫌な事も起こって来るぞ、天地を信じ、自分を知り人を理解する所にこそ誠の弥栄えあるぞ

だます者には騙されてやれよ、一先ひとまず騙されて、騙されん様に導いて下されよ、そなたはそんな場合に我を出すからしくじるのぞ、騙されてやろうとするからカスが残るのぞ、誠に騙される修業が大切じゃなぁ


第四十七帖(818帖)

八のつく日に気つけと申してあろう、八とはひらくことぞ、ものごとはひらく時が大切じゃ、第一歩の前に0歩が大切ぞ、心せよ

そなたは行き詰まって苦しんで御座るなれど、それは間違った道を歩んで来たからぞ、行き詰りは有難いぞ、省みる時を与えられたのじゃ、ミタマ磨きさえすれば何ごともハッキリと映って楽に行ける道がちゃんと作ってあるのじゃ、その人その人に応じていか様にでも展ひらけ行くぞ、犬猫でさえ楽々と栄えているでないか、洗濯次第でどんな神得しんとくでも与えるぞ


第四十八帖(819帖)

世界中を泥の海にせねばならん所まで、それより他に道ない所まで押し迫って来たのであるが、尚なお一厘いちりんの手だてはあるのじゃ、大神様にお詫び申してすっかり心を改めて下されよ、神々様も心得違い多いぞ、泥の海となる直前にグレンと引っ繰り返し、びっくりの道あるぞ


第四十九帖(820帖)

そなたの用意が足らんぞ、日々の人間の御用を、神の御用と和すように、神の御用が人の御用、人の御用が神の御用となるのがまことの道であり、弥栄えの道であり、大歓喜であるぞ

いつでも神かかれるように神かかっている様に、神かかっていても我われにも他にも分からぬ様になって下されよ、すき取る百姓が己おのれを忘れ大地を忘れ、鍬すきを忘れている境地がまことのみたま鎮しずめであり神かかりであるぞ

そこらでなさる行ぎょうもそれに至る一つの道ではあるが、それのみではならんぞ、気付け合って良きに進んで下されよ、そなたが歩むのじゃ、道は自分で歩まねばならんぞ、他人におんぶしたり他人が歩かせてくれるのではないぞ、そなたの力で、そなた自身の苦労で人を助けねばならんぞ、人を助ければその人は神が助けるのであるぞ、この道理なぜに分からんのじゃ、人を助けずに我われを助けてくれと申しても、それは無理と申すもの、神にも道は曲げられんぞ


第五十帖(821帖)

何も難しいことを申すのではない、自分の、内の自分を洗濯して明らかに磨けば良いのじゃ、内にあるものを浄化すれば外から近づくものが変わって来る道理、内の自分を洗濯せずに居て、汚いものが近づくとか世の中が暗いとか不平申して御座るなれど、そこにそなたの間違いがあるぞ

木でも草でも中から大きくなって行くのじゃ、三千年に一度の時がめぐり来ているのであるぞ、為せば成る時が来ているのじゃ、為さねば後悔ぞ、時過ぎて種を蒔いてもくたびれもうけ、そなたは世の中が悪いとか人が良くないとか申しているが、すべては大神の肚はらの中にいて一応大神が許しなされて居ればこそ存在し、生命いのちしているのであるぞ

悪く映うつるのは心の鏡かがみが曇っているからぞ、悪い世の中、悪い人と申すことは神を悪く申し、神界が悪いのじゃと申すのと同じであるぞ

新しき世界には新しき天詞てんしをこしらえねばならん、この事を間違えるでないぞ、珍しき御型おかたが出て来てびっくりじゃ、びっくりしなければヒックリとはならんぞ、神は今まで化けに化けていたがもう化けては居られん、人民ももう化けては居られんぞ、九分九厘までは化けて我慢していたなれど、化けの世、方便の世、方便の教えは済んだのじゃ

教えでは世は正されん、教えの集いは潰つぶれて了しまうのじゃ、無理してはならん、そなたの無理押しは良い事を悪く曲げるぞ


第五十一帖(822帖)

世界を一つにするのであるから王は秘答理ひとりじゃ、動きは二つとなるなれど、二つでないと動かんのじゃ、キはキの動き、ミはミの動き、動いて和すのじゃぞ、和すから弥栄えじゃ、和せば一つじゃぞ、キミとなるのじゃ

そなたは自分と他との境界を作っているなれど、境界作ってはならんぞ、境界を作らずに自おのずからなる自他の別を生み出さねばならんぞ、世界一家のやり方間違えて御座るぞ、それぞれの言葉言の葉はあれど実言みことは一つと申してあろうがな、大難は小難にする事は出来るのであるが、無くする事は出来んぞ、不足は不足を生むぞ

そなたは口を慎めよ、そなたは一度神を捨てよ、神にしがみついているから小さい囚われたゆとりのない神をそなたが作り上げているぞ、信ずれば信ずる程危ないぞ、大空に向かって大きく呼吸し、今までの神を捨てて心の洗濯をせよ、神を信じつつ迷信に落ちていると申してあることをよく心得よ


第五十二帖(823帖)

そなたはつまらん事にいつも心を残すから、つまらん事が出て来るのであるぞ、心を残すと言うことは、霊界との繋つながりがあることぞ、つまらん霊界にいつまでくっついているのじゃ

何ごとも清めて下されよ、清めるとは和すことであるぞ、同じもの同志では和ではない、違ったものが和すことによって新しきものを生むのであるぞ、奇数と偶数を合わせて新しき奇数を生み出すのであるぞ、それが誠の和であり清めであるぞ

善は悪と、陰は陽と和すことじゃ、和すには同じあり方で、例えば五と五との立場で和すのであるが、位くらいにおいては陽が中心であり陰が外でなければならん、天が主であり、地が従でなければならん、男が上で女が下じゃ、これが和の正しきあり方ぞ、逆さかさまならんぞ、これを公平と申すぞ

口先ばかりで良い事を申すと悪くなるのじゃ、心と行が伴ともなわねばならん、分かり切ったこの道理が行われないのは、そなたを取り巻く霊の世界に幽界の力が強いからじゃ、そなたの心の大半を幽界的なもので占めているからぞ、己おのれ自身の戦まだまだと申してあろうがな、この戦いくさ中々じゃが正しく和して早く弥栄え結構ぞ

そなたの持つ悪い癖くせを治して下されよ、その癖を治すことが御神業おんかみわざぞ、自分で世界を立て直す様な大き事申して御座るが、そなたの癖を治すことが最も大切な御用でないか、これに気がつかねば落第ぞ

恐れてはならん、恐れを生むからぞ、喜べ、喜べ、喜べば喜び生むぞ、喜びは神じゃ、神様御自身ごじしんも刻々こくこく弥栄えして御座るぞ、故ゆえにこそ生長なされるのじゃ、人間も同様でなくてはならん、昨日の自分であってはならん、今の自分ぞ、中今なかいまの我われに生きねばならん

われにどんな力があったとて我を出してはならんぞ、我を出すと力無くなるぞ、我を大き我に昇華させよ、大我に融け入らねばならん、大我に融け入ったとて小我が無くなるのでは無いぞ、人拝おろがめよ、物拝めよ、拝むと自分の喜びとなり、拝まれたものも喜びとなるぞ、嬉し嬉しうれしうれしとはその事ぞ


第五十三帖(824帖)

これほど言こと分けて申しても、得心えしん出来ないのならば、得心の行くまで思うままにやって見なされよ、そなたは神の中にいるのであるから、いくら暴れ廻っても神の外には出られん、死んでも神の中にいるのであるぞ、思う様にやって見て早く得心、改心致されよ、改心して仕事嘉言よごとと仕えまつれよ、結構じゃなぁ

そなたは自分は悪くないが周囲が良くないのだ、自分は正しい信仰をしているのだから、家族も知友も反対する理由はない、自分は正しいが他が正しくないのだから、正しくない方が正しい方へ従って来るべきだと申しているが、内にあるから外から近寄るのだと申してあろうが

そなたは無抵抗主義が平和の基もとだと申して、右の頬を打たれたら左の頬を差し出して御座るなれど、それは真の無抵抗ではないぞ、よく聞きなされ、打たれる様なものをそなたが持っているからこそ打たれる結果となるのじゃ、誠に磨けたら、誠に相手を愛しているならば、打たれる様な雰囲気は生まれないのであるぞ、頬を打たれて下さるなよ、生まれ赤児見よと知らせてあろうが


第五十四帖(825帖)

頭を下げてみなされ、流れて来るぞ、頭も下げず低くならないで居ては流れて来ないぞ、神の恵みは淡々とした水の様なものぞ、そなたは頭が高いぞ、天狗てんぐぞ、その鼻曲げて自分の臭いを嗅いで見るがよい、そなたは左に傾いているぞ、左も見なければならんが片よって歩いてはならんぞ、そなたは右を歩きながらそれを中道と思って御座るぞ、そなたは平面上を行っているから中道の積りで他に行く道は無いと信じているが、それでは足らんのう

立体の道を早く悟りなされよ、正中の大道あるのであるぞ、左でも無く、右でも無く、嬉し嬉しの道あるぞ、左も右も上も下も相対の結果の世界じゃ、原因の世界に入らねばならん、平面より見れば相対あるなれど相対では争いじゃ、戦いくさじゃ、立体に入り更に複立体、複々立体立立体の世界を知らねばならんぞ

真の世界平和は今のやり方考え方では成就せんぞ、三千世界和平から出発せねばならんぞ、そなたは神示を良く読んでいるが、それだけでは足らん、神示を肚はらに入れねばならん、付け焼刃やきばではならん、神示を血として生活すれば何ごとも思う通りにスラリスラリと面白い程栄えて来るぞ

思う様に運ばなかったら省みよ、己おのれが己に騙だまされて己のためにのみ為していることに気づかんのか、それが善であっても己の為ためのみならば死し、善の為の善ならば弥栄えるぞ、善にも外道の善あるぞ、心せよ

神示見て居らぬとびっくりが出て来るぞ、この世始まってない事が出て来るのじゃ、世界の片端はし浜辺からぞ、分かったか

そなたは神体を偶像と申して御座るが、それはそなた自身が偶像なるが故であるぞ、礼拝を忘れ、祈りを忘れることは神を忘れることじゃ、そなたの住む段階では祈り畏かしこみ謹んで実践しなければならんぞ、拝まんでも拝んでいる境地は中々じゃなぁ

そなたは我われが助かろうとするから助からんのじゃ、世界はこの世ばかりで無い事を良く得心して下されよ、我を捨てて素直になされよ、三千年の秋が来ているのであるぞ


第五十五帖(826帖)

そなたはよく腹を立てるが腹が立つのは慢心からであるぞ、下腹からこみ上げて来る怒りは大きな怒りであるから怒って良いのであるなれど、怒りの現わし方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く短くして下されよ、怒りに清い怒りは無いとそなたは思案して御座るなれど、怒りにも清い怒り澄んだ怒りがあるから良く心得なされよ

そなたはいつも自分の役に不足申す癖くせがあるぞ、その癖直して下されよ、長くかかってもよいから根の音からの改心結構ぞ、手は手の役、足は足の役、頭は頭の役、それぞれに結構ぞ、上下に貴賎きせん無い事をそなたには分かっている筈だから、早く得心して下されよ

そなたはこの神ときわめて深い縁があるのじゃ、縁あればこそ引き寄せて苦労させているのじゃ、今度の御用は苦の花咲かすことじゃ、真理に苦の花咲くのであるぞ、因縁のそなたじゃ、一聞いたなら十が分かるのじゃ、神が言わない先に分かってもらわねばならんぞ、知らせてからでは味無いぞ、十人並みぞ、今度の御用は千人力ぞ、十人並みでは間に合わんぞ

人間の目は一方しか見えん、表なら表、右なら右しか見えん、表には必ず裏があり、左があるから右があるのじゃ、自分の目で見たのだから間違い無いとそなたは我を張って居るなれど、それはただ一方的の真実であるぞ、独断どくだんは役に立たんぞと申してあろうが、見極めた上にも見極めねばならんぞ、霊の目も一方しか見えんぞ、霊人には何でも分かっていると思うと大変な間違いが起きるぞ、一方と申しても霊界の一方と現界の一方とは一方が違うぞ

そなたは中々に立派な理屈を申すが、理屈も必要であるが、理屈は泡の如きもの、そなたの財産にはならんぞ、体験の財産は死んでからも役に立つ、懺悔ざんげせよ申しても、人の前に懺悔してはならんぞ、人の前で出来る懺悔は割引きした懺悔、割引きした懺悔は神をだまし己を騙だます事となるぞ、悔い改めて深く省みて下され、深く恥じ畏おそれよ、心して慎んで下されよ、直ちに良き神界との霊線が繋つながるぞ、霊線繋がればその日その時から良くなって来るぞ、気持ちが曲がったら霊線が切り替えられる


第五十六帖(827帖)

そなたは何時いつもあれも良いらしい、これも良い様だと迷って、迷いの世界を生み出し、自分で自分を苦しめて気の毒よなぁ、これと一応信じたら任せ切れよ、梶かじを放して鳴門なるとの渦の中に任せ切れよ、任せると開ひらけて来るのじゃ、悟れた様でいてそなたが悟り切れんのは任せ切らんからぞ

そなたはいつも孤独、そなたの不運は孤独からじゃ、友作れよ、友を作る事は己おのれを作る事と申してあろが、友を作る事は新しき世界を作る事ぞ、一人の世界は知れたものぞ、一人では誠の道を生きては行かれんぞ、友と申しても人間ばかりでは無いぞ、山も友、川も友、動物も植物も皆友ぞ、大地も大空も皆友となるぞ、何もかも皆友じゃ、皆己おのれじゃ、皆々己となれば己は無くなるぞ、己無くなれば永遠とわに生命いのちする、無限の己となるのじゃ

御神前で拝むばかりでは狭いぞ、野菜拝めば野菜が、魚拝めば魚が己となるのじゃ、拝むことは和すこと、和すことが友作る秘訣ひけつぞ、友を己とすることは、己を友とすることじゃ、友に捧げることじゃ、親は子に捧げるからこそ子が親となるのじゃ、分かったか

赤ん坊のお尻を拭いてやる事もあるであろうがな、そなたが赤ん坊であったら出来ない芸当ぞ、お尻を出す者があっても決して怒ってはならん、子のお尻と思って綺麗に拭いてやれよと申してあろうが、お尻を持ち込まれるのは持ち込まれるだけの訳わけがあるからぞ、利子は後から支払えば良いとそなたは思っているが、先に支払う事もあるのであるぞ、先にお尻を拭かねばならん事も世が迫って来ると出て来るのじゃ、その代わり、後あとで神がそなたのお尻を綺麗に拭いて下さるぞ

ぶつぶつ申さずに勇んでやって下されよ、そなたは他に物を与える事に心せねばならんぞ、与えることは頂くことになるのであるから与えさせてもらう感謝の心がなければならんぞ、強く押すと強く、弱く押すと弱くはね返ってくる事よく知って居ろうがな、自分のものと言うものは何一つ無い事良く分かっている筈はずじゃ


第五十七帖(828帖)

そなたは失業したから仕事を与えてくれと申しているが、仕事が無くなってはおらんぞ、いくらでもあるではないか、何故に手を出さんのじゃ、そなたはすぐ金にならねば食っては行けない、金にならぬ仕事は出来ぬ、自分は良いが妻子が可哀想だからなどと申しているが、どんな仕事でもその仕事に融け込まねば、その仕事になり切らねばならんのに、そなたは目の先の慾よくに囚とらわれ慾になり切って、目の色を変えて御座るぞ、それでは仕事にならん、仕事は神が与えたり人が与えてくれるのでは無いぞ、自分自身が仕事にならねばならん、この道理さえ分かれば失業無いぞ、自分自身が仕事じゃからのう


第五十八帖(829帖)

春が来れば草木に芽が出る花が咲く、秋になれば葉が枯れるのじゃ、時節によく気をつけて取り違いせん様に致してくれよ、時節ほど結構なもの無いが、また恐いものも無いのであるぞ、丁度呼吸の様なもので一定の順序あるのぞ、吸きゅうの極きわみは呼となり、呼の極きわみは吸きゅうとなるぞ、これが神の用はたらきであるから、神の現われの一面であるから神も自由にならん

この神も時節には敵かなわんのであるのに、そなたは時々この時節を無視して、自我であるいは時節を取り違いして押しまくるから失敗したり怪我したりするのじゃぞ、素直にしておれば楽に行ける様になっているぞ、時待てば炒り豆にも花咲くのであるぞ、水が逆に流れるのであるぞ、上下でんぐり返るのであるぞ、上の人が青くなり、下の人が赤くなるのであるぞ、取り違いせぬ様、理解して下されよ


第五十九帖(830帖)

一度申した事どこまでも貫くそなた結構ぞ、なれど囚とらわれているぞ、この神はちっと大きな今までに無い大変を致すのであるから、あまり小さく囚われていると分からん事になって来るぞ、固まる時には一度に固まらねばならん、昨日は昨日、今日は今日ぞ

そなたは動機が善ならば失敗は薬と我われの都合の良い様に我と我を弁解して御座るなれど、弁解したのでは薬にならん、毒となる事あるぞ、省かえりみよ

そなたは何神様でも仏でも何でもかんでも拝んでいるが、その順序と区別がよく分かっていないぞ、分からずに盲っぽうに拝んではならん、心得なされよ

そなたは忙しい忙しい、神示読む間も無いと申しているが、忙しいのは神の恵みであるぞ、忙しい中にこそ神示を読む時があるのじゃ、澱よどんだ水は腐くさるのじゃ、逃げ道を作ってはならん


第六十帖(831帖)

そなたは自分の力を人に見せ様としているが無邪気なものじゃのう、自分の力が隠せぬ様では頭に立つ事出来んぞ、何もかも出してしまったのでは味が無くなるぞ

そなたは良く祈る、祈る事は結構であるなれど、祈るばかりでは物事成就せんぞ、為すには先づ祈らねばならんが、そなたはそなたの神にのみ祈っているぞ、為すのは己であるから己に祈らねばならんぞ、己に祈った後に己が為さねばならんぞだが、為したのみではまだ足らんぞ、時々は省みなければならんぞ、乳房与えられても自分で吸わねば自分の身には付かん道理どうり

そなたは形や口先ばかりで拝んでいるが、心と行と口と三つ揃わねばならん、三つ揃って拝むならばどんなものでも与えられるのじゃ、拝む所へ物は集まって来る、神も集まって来る、足らぬもの無くなるぞ、余ること無くなって満たされるのが誠の富じゃ、清富じゃ


第六十一帖(832帖)

心配くばりは忘れてならんなれど、そなたの苦労は取り越し苦労ぞ、取り越し苦労、過ぎ越し苦労は要らんぞ、そうした苦労はそうした霊界を作り出して自分自身が要らぬ苦労をするぞ、何事も神に任せよ

そなたはまだ神業かみわざの取り違いして御座るぞ、そなたの現在与えられている仕事が神業であるぞ、その仕事をより良く、より浄化する様に行じねばならんぞ、務つとめた上にも務めねばならん、それが御神業であるぞ

そなたはそなたの心と口と行いが違うから、違う事が次から次へと折り重なるのじゃ、言葉を正して行かねばならんぞ、苦を楽として行かねばならん、苦と心するから苦しくなるのじゃ、楽と心すれば楽と出て来るのじゃ、ちょっとの心の向け方、霊線の繋つなぎ方ぞ

相手を神として拝めば神となるのじゃ、そなたは悪人は悪人じゃ、神として拝めとは無理じゃと申しているが、一枚の紙にも裏表あるぞ、そなたはいつも裏ばかり見ているからそんな事になるのじゃ、この世は皆、神の一面の現われであるぞ


第六十二帖(833帖)

そなたは現実世界の事ばかりしか分からんから、現実の事ばかり申して、1いちに1足たすは2にだとばかり信じているが、現実界ではその通りではあるが、それが平面の見方、考え方と申すもの、いくら極きわめても進歩も弥栄えも無いのじゃ、1に1足す1の世界、1に1足す無限の世界、超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のある事を体得たいとくしなければならんぞ

そなたは心を持っておろうがな、心があれば心の属する世界のある道理は分かるであろうが、心で描いて心で先ずつくり出してから行為する事もその順序も分かるであろうがな、心の動きが先で肉体がその後で動く事も分かって居ろうがな、心の世界に無いものは物質の世界に無い道理も分かって居ろうがな、霊界が主で現実界が従である事分かって下されよ

逆立ちしてそなた自身で苦しんでいる事を早く得心して、嬉し嬉しうれしうれしで暮らして下されよ、何故に迷うのじゃ