「荒れの巻」の内容について

この「荒れの巻」は神示の中では最も難解と思われ、難読の当て字のオンパレードになっています。
私は当初これを目にした時、「本当に荒れてるなあ」と思ったものですが、こうして文脈を整理しながら単語を整えてみると、いつもの「日月神」節が垣間見えてきます。

そうして読むと、全くブレた部分がないように感じました。
ただ、「荒れの巻」はちゃんと読むと、わりととんでもないことが書かれていることに気づきます。

この文節には「天日月大神」に比定される「国常立尊」については語られず、その代わり「伊弉諾命(那岐)」と「伊奘冉命(那美)」の二柱と「大素戔嗚神」の三柱が登場します。
そして、この三柱で「岩戸開き」とその道を説かれており、順当に読めば「伊弉諾命が伊奘冉命の御位を継ぎ、天を司り三千世界を治める」と書かれています。

突拍子がないように感じるので、少しずつ整理をしながら解説していきたいと思います。


「伊弉諾命=国常立尊=素戔嗚命?」

伊弉諾命と伊奘冉命は神世七代の末代にして、伊弉諾命は単身で三貴子の親神となります。
神示によれば、伊弉諾神と伊奘冉神の成りなる(変化?)の末に伊弉諾命、伊奘冉命となられたそうです。
その系譜の始めには「天御中主神」がおり、「高神産日神」と「神産日神」を加えた御三体の神々がおられ、別天津神五柱の次にお産まれになられたのが、神代の初代である「国常立尊」と「豊雲野尊」となります。

この文書においては、伊弉諾命が国常立尊と同一神格として語られているように思います。
どうも伊弉諾命が「月と海原」を司る神であり、それは素戔嗚命を連想しますが、神示の文脈では「素戔嗚命」は国常立尊と同一神格とされます。

つまり、「伊弉諾命=素戔嗚命=国常立尊」ということになります。そんなことがあるのでしょうか。

一般的な日本神話の文脈では、伊弉諾命と共に神産み、国産みをなされた伊奘冉命は、火迦具土命をお産みになられた際の火傷が原因で、お亡くなりになります。
その後、伊奘冉神様は黄泉の国に入られ、伊奘冉命を慕った伊弉諾命は黄泉に渡りますが、そこで仲違いをしてしまい、命からがら地上に戻ってきます。
そこで潔斎をした時に単独で三貴子をお産みになられていますが、御子神の天照大御神が太陽神となっています。

ただ、神示によれば「五つの岩戸閉じ」の中で、岩戸隠れをした天照大御神はそのままお隠れになられたままであり、偽りの太陽神が現れたことで世が闇となったと語られます。
また別の岩戸閉じでは、罪を着せられた素戔嗚命が高天原を追われ、地上に封じ込められたとされます。

素戔嗚命と言えば、「夜の食す国」と「天が下」と「滄海原」を司る御神格であらせられます。
そこで「月と水」を支配する素戔嗚命を伊弉諾命と仮定すれば、「日と火」を司る神格は伊奘冉命となってしまいます。
つまり、地に封じられし伊弉諾命が岩戸開きによって世に現れ、伊奘冉命を岩戸から救い出すことになるとしたら、真の太陽神である伊奘冉命も再び世に現れることを意味します。

日本神話でも伊奘冉命は常闇の世界におられ、そこで死霊たちを治めています。
奇しくも真の太陽神は岩戸の中にいらっしゃるとされており、ここで辻褄が合うのです。
そもそも、「伊奘冉命」の「いざなみ」とは、「誘う(=いざなう)+霊(み・ひ)」を意味し、元は地上の精霊や死後の死霊を導く神格とされていたのでしょう。

対して「伊弉諾命」の「いざなぎ」とは「誘う+キ(気・饌)」であり、生命や実りを象徴する神格と考えられます。
私たちは直感的に「伊奘冉命(波)」は水を司り、「伊弉諾命(凪)」は風を司るから、伊奘冉命が海を、伊弉諾命が空、または天を司るとイメージしがちです。
しかし、伊弉諾命の御子神であられる天照大御神は女神であられますし、天体の太陽と高天原を司る神格であり、弟の素戔嗚命が月と地上と海原を支配するのは、この世代では男女の立場が逆転しているとも言えます。

子を産む役割を担うのは女性です。本来、女神の方が男神より生命生産的役割は上ですが、ただそれが立場上の関係と同じであることは限りません。

太古の日本人、少なくとも卑弥呼の時代頃までは、日本は女系社会だったと言われており、その文脈で高神産日神と神産日神に性別を鑑みれば、「高く(大きく)神を産む」のは女神です。
だから神産みをするとしたら、多くの神を産めるのは男神よりも女神の方だと考えられますし、その役割を序列化するとしたら女神の方が権威を持ってもおかしくありません。

神示によれば、国常立尊が高天原の最高神の御位に就く時、日と月を同時に治め、高天原を支配する最高神の神格を「嗣ぐ」天日月大神となられるそうです。
もし本来、伊弉諾命が元から天を統べる神であるとするなら、岩戸から出られた後に玉座に就くのは「戻る」だけであり、「嗣ぐ」ことにはなりません。
ゆえに、元は高天原と天体の太陽を司っていたのは「豊雲野尊」いわゆる伊奘冉命であり、国常立尊である伊弉諾命がその最高位を継承するからこそ、新たな時代の神となることを意味するのではないでしょうか。

この「荒れの巻」をきちんと読むと、そういった文脈が浮かび上がってきます。
また、「大素戔嗚神」という御神名が登場しますが、神示を読み解いていくと「素戔嗚」というのは「神の働き」を神格化した神名であり、言わば伊弉諾命(国常立尊)の神力そのものを「素戔嗚(凄まじく成る)」と呼称しているようです。

そして「大素戔嗚神」というのは、伊弉諾命と伊奘冉命が共に働かれる場合の神力を指しているように読み取れ、厳密に言えば「天日月大神」とは伊弉諾命と伊奘冉命がお力を合わされた際の御神格であり、「日の神」と「月の神」の二柱が合わさるからこそ「日月」と呼ぶのだと思います。
そして、天体としての太陽を司る神格は変わらず伊奘冉命であり、高天原の「日=最高位」は月の神、地上の神である伊弉諾命が継承する、とすれば「日月神示」の真髄が見えてきます。

神示の重要な概念である「天と地のあなない」は、まさに月地神の伊弉諾命と日神の伊奘冉命の二柱が三千世界を共同統治することを意味します。


伊弉諾命・伊弉冉命と「五つの岩戸」

この世界を闇に陥れた「五つの岩戸」において、地上に封じられた伊弉諾命と岩戸に封じ込められた伊奘冉命という構図によって、「伊弉諾命と伊奘冉命の別離」「素戔嗚命の追放」「天照大御神の岩戸隠れ」の三つが同時に説明できてしまいます。
「荒れの巻」には、地上の岩戸を出られた伊弉諾命が、自ら伊奘冉命の岩戸をこじ開け、救い出して逢瀬を果たす時に全ての岩戸が開かれる、そう読み取れます。

五つの岩戸のうち、あとの二つの岩は「人皇の支配」と「仏教伝来」を指しますが、神示の文脈を加味するならば、天の大神が地上を直接支配する時代においては、天に変わり臣民を治める人皇は役目を終え、仏教の最終目標である弥勒の世が到来すれば、仏教のタイムラインが完了してしまうため、同時に終わりを迎えてしまうのです。
ゆえに、伊弉諾命が地上の岩戸から出た次の瞬間には、自動的に四枚の岩戸が開かれることになり、始めの岩戸が開かれた時点で、弥栄の世を迎えることが確定するのです。

そして、単独の神としては八柱の神産みが限度だった伊弉諾命(神産日神)が、伊奘冉命(高神産日神)と再び神産みをすることができるのならば、十柱以上の神々を産み出すことができるようになり、神の世界もそれによって様変わりすることでしょう。
「三千世界の大洗濯」たる大峠が神々の世界も巻き込む所以はここにあり、それを乗り越えた後には神々の世界も新たな時代に入っていくのだと思います。

ただ、その肝腎要の「地の岩戸開き(伊弉諾命の封印)」は、未だに解かれてはいないのではないでしょうか。
いつか詳細に扱いますが、私は天の岩戸が1955年前後に本当に開かれたのではないかと考えています。神示の中では、天界と地上では起こることはほぼ同じであり、連動はしても順序が違えることもあると述べられています。

もし、現在の我が国において、「大峠」と考えうる困難が訪れているのだとしたら、その救いは「地の岩戸開き」を私たちが行うことにかかっているのかもしれません。
そして、その岩戸開きの方法が隠されていたのが、この「荒れの巻」だと思います。確かに、幾つもヒントらしき文章が垣間見えます。

「岩戸開き」の要である「鳴門」と「富士」という概念は、おそらく「不二(二つとない=一つである=三つでもある)」という仕組みにあり、それは私たち人間が神と繋がり、神が腹に鎮まった人間となることで「神人合一」を果たし、この世界に唯一無二の存在として自立することを意味するのではないでしょうか。

そして、神示に口酸っぱく述べられる「身魂(みたま)磨き」とは、心も行いも汚い人間には神を感じることができないからであり、「神人合一」を果たすならば、いつまでも「我よし」という頭ではダメなのだ、と仰りたいのだと思います。
そして、たった59人のそれができる人々がこの世にいれば「岩戸開き」は成就するとされ、それは神々が生き変わり死に変わりさせてきた因縁ある魂を導き、結果的には達成させる予定なのだと言います。

ただ、これで黙っていても岩戸開きが成されるとは限らず、おそらく本来なら30年前に「地の岩戸開き」は完了するはずだった、と私は考えています。
長くなるので今回は書けませんが、2020年の子年を境とした今回のウェーブで、もし岩戸が開かれなければ次の30年後に再び訪れる大峠は、まさに大難の時代となり、神事で示されているように「5人に1人」しか生き残らないような、悲惨な情勢が本当に訪れる可能性があります。

だから神示の中で、日月神様は幾度となく「大難を小難にせよ」と仰られるのだと思います。
確かに、前回の「岩戸開き」のウェーブが30年前にあったとしたら、バブル崩壊後間もない日本の元気な状態ならば、大峠を迎えたとしても今ほど困難な状況には陥らなかったかもしれません。
私たち中年は30年後などどうでもいいかもしれませんが、まだ10代・20代の子供や若者の人生を考えると、この時代で弥勒の世にしなければ、日本人は生き残れないかもしれないと想像しても、決して極端ではないでしょう。

「どうせ日本は老人だらけの国だ」と国土を外国に二束三文で売り払い、経済も文化も衰退する一方の我が国を見て、まさか眉唾と思う人はいないでしょう。
ただ、神示の中ではそれも神々は折込済みであり、その解決方法もきちんと提示なされています。

それには神の導きを体現して「型」を示していく人々の存在が不可欠であり、その型を実地に見せることによって、具体的な変革のうねりを生み出していくのだろうと思います。

それは政治活動や社会活動で世を変えるというよりも、自らの魂を磨くことで神と繋がり才能を発揮し、その果てに国や世界を救う道があるのだとしたら、思うような苦労ではないのではないでしょうか。
天日月神様によると、そういう奇特な人は神様がきちんと帳面に記して、末代名が残るようにするとまで仰っておられます。

今でも日本人にわりと吞気な人は多いですが、実は我が国の建国以来、地味に最悪な状況が訪れてます。

昔の日本人の精神性が失われ、人々が自らの気概を持たなくなって久しく、その甘さにつけ入る勢力が存在するのです。

ただでさえ「我よし」で、金と力とルックスさえあれば何とでもなる世の中で、人間として大切なものを取り戻し、本当に平和で豊かな社会を望むのならば、今のままではいけないことは確かでしょう。

私は日本のためを思うからこそ、「日月神示」をもっと多くの人に読み込んでもらいたいですし、もし誤解や偏見があるならば、改めて本当の教えに気づいて欲しいと思います。
そのヒントは、この神示の中にあると感じています。

胡散臭いとか、オカルトと一蹴したくなる気持ちもわかりますが、軽い気持ちで日月神様の言葉を一度は間に受けてみて欲しいのです。
ふとした瞬間に心の鎖が外れて、本当の自由に気がつく人がいるのではないでしょうか。
もしかすると、そんな小さなきっかけから、大きな物事が動き出すのかもしれません。