第十帖(386帖)

地上人は内的に生前の霊人と通じ、また死後の霊人と通じる。

地上人が生前を知得するのは、この霊人を通じるが故であり、死後を知得するのも、また同様に通じるからである。

生前と死後は同一線上に置かれているが同一ではない。

地上には物質的形式があり、霊界には霊的形式がある。その形式は歓喜の交叉し、発するところによって自ら成るものである。

形式なくしては合一なく、力なく、形式あるが故にものが総てに合一し、弥栄し、力し、大弥栄するのである。

形式の中に和することは、その個々が差別されているからである。差別し区別せられることは、その各々に各々が共通する内質を持つからである。共通性なきものは差別し、区分することができない。

霊界と現実界との関係はかかるものであるが故に、常に相応し、力し、力を生じ、また常に相通じて力を生みゆく。

これは、平面的頭脳では中々に理解しがたいのであるが、この根本原理を体得、理解し得たならば、神、幽、現、三界に通じ、永遠に弥栄する大歓喜に住するのである。

されば差別は平等と合一することによって立体の差別となり、平等は差別と合一することによって立体平等となり得る。

霊人が地上人と和合し、また地上人が霊人と和合し、弥栄するのは、この立体平等と立体差別との弥栄ゆるが為めであることを知らねばならぬ。

この二つの相反するものを統一し、常に差別しつつ平等に導き、立体して行く力こそ、神そのものの力であり、歓喜である。

この二つの力と神の歓喜なくしては地上人なく、また霊人もあり得ないのである。

生成発展もなく、神の歓喜し得ない。

この力なくしては地上人は霊人と和し、神に和し奉ることはできない。故に生命しないのである。


第十一帖(387帖)

霊人は遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。

同一線上にいる霊人の言葉は、いずれも同一であって共通する。

霊人の言葉は霊人の想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通じるのである。しかし、相手が聞くことを欲しない時には聞こえない。

それはちょうどテレビやラジオのごときものであると考えたらよい。

またその語ること、その語音によって、その相手のいかなるものなるかを知り得るのである。すなわち、その発音から、また言葉の構成から、その霊人のいかなるものなるかは、ただちに判明する。

霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが、その表現は相違している。

故に、霊人と地上人と会話する時は、霊人が地上人の想念の中に入るか、地上人が霊人の想念に和するか、そのいずれかでなくてはならない。

しかし、霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、その内蔵するものが極めて深く広いが故に、霊人の一語は地上人の数十語、数百語に価する場合が多く、その霊人が高度の霊人であればあるだけ、その度を増してくるのである。

原因と結果とを一にし、さらに結果より生じる新しい原因も、新しい結果をも同時に表現し、なお言葉そのものが一つの独立せる行為となり、かつ一つの独立せる生きものとなって現われ、行為し、生命するからである。

言葉そのものが弥栄であり、生命である。またすべてであるということは、地上人には理解出来ぬであろう。

それは過去が現在であり、未来もまた現在であり、さらに生前も、生後の立場においては生後であり、死後の立場においては死後である。

また一里先も、百里先もまた千万里離れていても、同一の場所であるのと同様であって、理解するに極めて困難である。

だが、地上人においてもそれを知り得る内的な生命を持っているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない。

霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもあるが、その霊人の置かれている位置によって二つのものに大別し得る。

歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。故に柔らかくて連続的であり、太陽の⦿(ひかり)と●(熱)とに譬たとえることができる。

また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。故に清く流れ出でて連続的ではなく、ある種の固さを感じさせる。そしてそれは月の光と、水のごとき清さとを感じさせる。

また前者は曲線的であって消極面を表に出し、後者は直線的であって積極面を表に出している。

また前者は愛に住するが故に、主としてO(お)とU(う)の音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてE(え)とI(い)の音が多く発せられている。

そして、そのいずれもがA(あ)音によって統一要約する神密しんみつ極まる表現をなし、またそれを感得し得る能力を持っている。

しかし、これらOU(おう)、EI(えい)及びA(あ)の母音は想念の ・ をなすものであって、地上人よりすれば、言葉そのものとしては感得し得ないことを知らねばならないのである。

霊界における音楽もまた同様であって、愛を主とした音楽はO(お)及びU(う)を多分に含み、曲線的であり、真を伝える音楽はI(い)及びE(え)の音が多く、直線的である。

それは、言葉そのものがかかる内質をもっており、各々が霊界における生命の歓喜の表現なるが為めである。またこれら霊人の言葉は、天的の韻律いんりつを持っている。

すなわち愛を主とするものは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律を主としているが、その補助律としては、千変万化である。

言葉の韻律は地上人が肉体の立体を持っているごとく、その完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がないのである。


第十二帖(387帖)

霊人が地上人に語る時は、その想念が同一線上に融和するが為めである。

霊人が地上人に来る時は、その人の知るすべてを知ることとなるのであるが、その語るのは霊人自身でなくて、霊人と和合して体的の自分に語るのである。自分と自分が談話しているのである。

霊人は現実界と直接には接し得ない。また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。しかし、それぞれの仲介を通じていっても、直接行うのと同様の結果となるのである。

ために地上人は直接なし得るものと考えるのである。

地上人の想念の中には霊界が映像されており、霊人の想念の中には現実界が内蔵されている。故に、この二つの世界が一つに見えることもある得るのである。しかし、映像と実相の隔たりはかなり遠いものである。

霊人と地上人との交流において、この間の真相を知らねばならぬし、その互いに交わされる談話においても前記のごとくであることを知らねばならない。

霊人も地上人も、自分自身と語り、自分自身の中に見、かつ聞いているのである。

霊人が地上人に憑依したり、動物霊が人間に憑依したりすることは、前記のごとき原則によってあり得ないのである。

しかし、外部からの感応であり、仲介された二次的交流であっても、その度の強くなった場合、地上人から見れば憑依せると同様の結果を現わすものである

故に、神が直接、人間を通じて人語を発し、または書記するのではなくて、それぞれの順序を経て地上人に感応し、その地上人の持つそれぞれの人語を使用して語り、その地上人の持つそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。

しかし、神の言葉はいかに地上人を通じて人語としても、その神に通じる想念を内蔵せぬ地上人には伝え得ないのである。語れども聞き得ず、読むともその真意は通じ得ないのである。

霊人の中には自分達の住む霊界の他に別の世界が限りなく存在することを知らず、また、その世界に住む霊人を知らず、また物質世界と地上人を知らない場合もある。

それはちょうど、地上人の多くが、生前および死後の世界を信じないと同様である。


第十三帖(388帖)

地上人が限りなきほどの想念的段階をもち、各々の世界をつくり出しているごとく、霊界にも無限の段階があり、その各々に同一想念を持つ霊人が住んでおり、常に弥栄しつつある。

下級段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、その想念も上級霊界においては必ずしもそうではない。美も醜となり、愛も憎となり、善も真もそのままにして善となり、真と現われ得ない場合がある。

其処そこに偉大にして、はかり知れざる弥栄の御神意がある。

と同時に、+(真善)(真善美愛)歓喜)(大歓喜)と現われる神秘なる弥栄があり、悪の存在、偽の必要性などが判明するのである。

故に、下級霊人との交流は、地上人にとっても霊人にとっても、極めて危険極まりないものではあるが、半面においては、極めて尊いものとなるのである。

下級霊人自身が (善)なりと信じて行為することが、地上人には(悪)と現われることが多いのである。

何故ならば、かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性を持ち、他の世界を知らないからである。

そがため、感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨みむねなるがごとくに独断し、ついには、自信自らが神の代行者なりと信じるようになるからである。

所謂いわゆる無き地獄をつくり出すからである。

地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものを含む。奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることをしらなければならない。

かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。浄化し、改心し得ないものである。

また、霊人と地上人との交流によるのみでは向上し得ない。脅迫や賞罰のみによっても向上し得ない。

すべて戒律的の何ものによっても、霊人も地上人も何等の向上も弥栄も歓喜もあり得ない。半面、向上のごとくに見える面があるとも、半面において同様の退歩が必然的に起こってくる。

これは強いるが為めである。

神の歓喜には強いることなく、戒律する何ものもあり得ない。

戒律あるところ必ず影生じ、暗を生み出し、カスが残るものである。それは大神の内流によって弥栄する世界ではなく、影の世界である。

中心に座す太神のお言葉は順を経て霊人に至り、地上人に伝えられるのであるが、それはまた霊界の文字となって伝えられる。

霊界の文字は主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。

直線的なものは月の霊人が用い、曲線的な文字は太陽の霊人が使用している。ただし、文字としてほとんど数字のみが使用されている場合もある。

数字は他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。しかしこれは不変なものではなく、地上人に近づくに従って漸次変化し、地上人の文字に似てくるのである。


第十四帖(389帖)

霊界には時間がない。故に霊人は時間ということを知らない。

そこには霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。すなわち、時間はないが状態の変化はある。故に、霊人たちは時間の考えはなく、永遠の概念を持っている。

この永遠とは、時間的なものは意味せず、永遠なる状態を意味するのである。永遠ということは、時間より考えるものではなく、状態より考えるべきである。故に、霊人が地上人に接し、地上人に語る時は、地上的固有的な一切を離れて状態とその変化による霊的なものによって語るのである。

しかし、この霊人の語る所を地上人が受け入れる時は、対応の理により、それが固有的地上的なものと映像されてくるのである。また、地上人に感応して語る時は、その霊媒の思念を霊人の思念として語るが故に、固有的表現となり、地上人にも十分に理解し得るのである。

多くの地上人は、霊人を知らない。地上人には、地上世界に顕現するすべてのものに霊体が存在するということを中々理解しないし、霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々理解しない。

ただし、死後の霊人は、相当に長い間地上世界のことを記憶しているものである。

地上人が何故霊界のことを理解し難いかと言うと、それは、地上的物質的感覚と地上的光明の世界のみが、常にその対象となっているからである。

例えば霊人とは、地上人の心に通じ、あるいは心そのものであると考えるためである。つまり、霊人は心であるから、目も、鼻も、口もなく、また、手足なども無いと考えるからである。ところが実際は、霊人そのものが手を持つが故に地上人に手があり、指を持っているが故に、地上人に指が生じることを知らなければならない。

しかも、霊人は地上人よりはるかに精巧に出来ていることは、それを構成するものが精巧であることによって立証されるであろう。霊人は地上人にまして一段の光明の世界にあり、一段と優れた霊体を有している。

霊界における事物はすべて霊界における太陽と、太陰とにより生まれてくる。それは地上人おける場合と同じである。太陽と太陰との交叉により生じる歓喜によって、その生まれたるものはさらに一層の光輝を放ち、弥栄となる。

また、霊界には物質世界のごとく空間はない。

このことを地上人は中々に理解しないのである。霊界における場所の変化は、その内分の変化に他ならない。霊界に距離はない。空間もない。ただ、あるものはその態の変化のみである。

故に離れるとか、分かれるとかいうことは、内分が遠く離れていて、同一線にないことを物語る。

物質的約束における同一場所にあっても、その内分が違っている場合は、その相違の度に、正比較、正比例して、遠ざかっているのである。

故に、地上的には同一場所に、同一時間内に存在する幾つかの、幾十、幾百、幾千万かの世界、及びあらゆる集団も、内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様であることを知り得るのである。


第十五帖(390帖)

霊界には山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。

故に、そこには霊人の住宅があり、霊人はまた衣類を持つ。住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、といったふうに、現実世界とほとんど変わりがない。

ということは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であるということを意味する。また、内分を同じくする霊人達は、相集まり、住宅は互いに並び建てられており、地上における都会や村落とよく似ている。

その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。そして、これらのすべてが霊界に存在するが故に、地上世界に、その写しがあるのである。

霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である。地上人は、物質を中心として感覚し、かつ考えるから、真相がなかなかにつめない。

これらすべての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。

また天人の衣類も、その各々が持つ内分に正比例している。高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる。彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。理智に対応するということは、真理に対応するということになる。

ただし、最も中心近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。この境地に至れば、すべてが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である。

しかし他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せるごとく見ゆるのである。また、衣類はすべて霊人の状態の変化によって変化して行くものである。

霊人はまた、いろいろな食物を食している。言うまでもなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。

食べられる霊食そのものも、食べる霊人もいずれも食べる、ということによって歓喜しているのである。

地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。そして、食べるということは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。

霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。

これらの行為は、本質的には、地上人と相通じる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合いおよび表現には大きな差がある。食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。

以上のごとくであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのかわからないほどである。

また霊人の食物は、その質において、その霊体の持つ質より遠く離れたものを好む。現実社会における、山菜、果物、海藻等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。

何故ならば、性の遠く離れた食物ほど歓喜の度が強くなって来るからである。霊人自身に近い動物的なものを食べると歓喜しないのみならず、かえって不快となるからである。

そして霊人はこれらの食物を歓喜によって調理している。そしてまた与えられたすべての食物は、悉ことごとく食べて一物も残さないのである。

すべての善は・より起こり・に還るのと同様、すべての悪もまた・より起こり・に還る。故に、神を離れた善はなく、また神を離れた悪のみの悪はあり得ないのである。

ことに地上人はこの善悪の平衡へいこうの中にあるが故に、地上人となり得るのであって、悪を取り去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。

この悪を因縁により、また囚われる感情が生み出す悪だと思ってはならない。この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。

悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。所謂いわゆる、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。

地上人は、霊人との和合によって神と通じる。地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。その平衡するところに力を生じ、生命する。

しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの ・が与えられると見えるものである。これを直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からする時は理解力となり、真理となる。

また、愛より入る時は善となり、信仰力となって現われる。

そして、神と通じる一大歓喜として永遠に生命する。故に、永遠する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰と離れてはあり得ないのである。

神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。法則とは歓喜の法則である。神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。これは地上人として生まれ出ずる生前から、また死後に至るも止まざるものである。

神は左手にての動きをなし、右手にての動きを為す。そこに地上人としては割り切れないほどの、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。

地上人は絶えず、善、真に導かれていると共に、また悪、偽に導かれる。この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。その平衡が、神の御旨みむねである。

平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と言うのである。左手は右手により生き動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。

善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。神は善・真・悪・偽であるがその新しき平衡が新しき神を生む。新しき神は、常に神の中に孕はらみ、神の中に生まれ、神の中に育てられつつある。

始めなき始めより、終わりなき終わりに至る大歓喜の栄える姿がそれである。


第十六帖(391帖)

考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない、霊的な内奥の自分からである。

この内奥の自分は神につながっている。故に自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分というものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神が為し給っているのである。

そこに地上における司宰者しさいしゃたる、またたり得る本質がある。

地上人が死の関門をくぐった最初の世界は、地上にあった時と同様に意識があり、同様の感覚がある。これによって、人の本体たる霊は、生前同様に、霊界でも見、聞き、味わい、嗅ぎ、感じ、生活することが出来るのである。

しかし、肉体を捨てて、霊体のみとなり、霊界で活動するのであるから、物質の衣にすぎないことが判明する。

肉体を持っている地上人の場合は、その肺臓が想念の現われとなって呼吸する。霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている。また、心臓は、その情動の現われとなって脈打つ。霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ。

この二つの動きが、一貫せる生命の現われであって、生前も、生存中も、死後も、また同様である。

肉体の呼吸と脈搏とは、新しき霊体の呼吸と脈搏に相通じ、死の直後に霊体が完全するまでは、肉体のそれは停止されないのである。

かくて、霊界に入った霊人たちは、すべて生存時と同じ想念を持っている。為に、死後の最初の生活は生存時とほとんど同一であることが判明するであろう。

故に、そこには地上と同様、あらゆる集団と、限りなき段階とが生じている。而かくして、霊界においては、先に述べたごとき状態であるが故に、各人の歓喜は、死後の世界においても、生前の世界においても、これに対応する霊的の事物と変じて現われるものである。

この霊的事物は、地上の物質的事物に対応する。人間が物質界にいる時は、それに対応した物質の衣、すなわち肉体を持ち、霊界に入った時はそれに対応した霊体を持つ。

そして、それはまた完全なる人間の形であり、人間の形は、霊人の形であり、神の形であり、さらに大宇宙そのものの形である。

大宇宙にも、頭があり、胴があり、手足があり、目も、鼻も、口も、耳もあり、また内臓諸器官に対応するそれぞれの器官があって、常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばならない。

大歓喜は無限であり、かつ永遠に進展して行くのである。変化、進展、弥栄せぬものは歓喜ではない。歓喜は心臓として脈打ち、肺臓として呼吸し発展する。故に、歓喜は肺臓と心臓とを有する。

この二つは、あらゆるものに共通であって、植物にもあり、鉱物にすら存在するものである。人間の場合は、その最も高度にして精妙なる根本の心臓と肺臓に通じる最奥の組織を有する。

これはもはや心臓と表現するにはあまりにも精妙にして、かつ深い広い愛であり、肺臓として呼吸するにはあまりにも高く精巧なる真理である。而して、この二者は一体にして同時に、同位のものとなっていることを知らねばならない。

それは心臓としても脈搏でもなく、肺臓としての呼吸でもない。表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現われである。

そこに人間としての、他の動物に比して異なるもの、すなわち、大神より直流し来るものを感得し、それを行為し得る独特のものを有しているのである。

人間が一度死の関門をくぐり、肉体を捨てた場合は、霊そのものの本来の姿に帰るのであるが、それはただちに変化するものではなくして、漸次その状態に入るのである。

第一は極外の状態、第二は外の状態、第三は内的状態、第四は極内的状態、第五は新しき霊的生活への準備的状態である。七段階と見る時は、内と外との状態を各々三段階に分け、三つと見る時は内、外、準備の三つに区分するのである。


第十七帖(393帖)

地獄はないのであるが、地獄的現われは、生前にも、生後にも、また死後にもあり得る。

しかし、それは第三者からそのように見えるのであって、真実の地獄ではない。

大神は大歓喜であり、人群万類の生み主ぬしであり、大神の中にすべてのものが生長しているためである。

死後ひとまず置かれる所は、霊、現の中間の世界であり、そこでは中間物としての中間体を持っている。

意思のみでは力を生まない。理解のみでも進展しない。意思と理解との結合によって弥栄する。このことは中間の状態、すなわち死後の最初の世界において、何人もはっきりと知り得る。

しかし、生存時において、すでに過去を清算している霊人は、この中間世界にとどまる必要はなく、その結果に対応した状態の霊界にただちに入るのである。

清算されていない者は清算が終わるまで、この中間世界にとどまって努力し、精進、教育される。その期間は五十日前後と見てよいが、最も長いものは十五、六年から二十年位を要する。

この中間世界から天国的世界をのぞむ時は、光明に満たされている。故に何人もこの世界へ進みやすいのである。また、地獄的な世界は暗黒に満たされている。故に、この世界に行く扉は閉ざされているのと同様であって、極めて進みにくいのである。

天国には昇りやすく、地獄には堕ち難いのが実状であり、神の御意志である。しかし、この暗黒世界を暗黒と感ぜずして進み行くものもあるのであって、その者たちには、それがふさわしい世界なのである。

そこは、はかり知れないほどの大きく広い、神の世界がひらかれている。この地獄的暗黒世界は、暗黒ではあるが、それは比較から来る感じ方であって、本質的に暗黒の世界はなく、神の歓喜は限りないのである。

以上のごとく、中間世界からは無数の道が無数の世界に通じており、生前から生後を通じて、思想し、行為したことの総決算の結果に現われた状態によって、それぞれの世界に通じる道が自らにして目前にひらかれて来るのである。

否、その各々によって自分自身が進むべき道をひらき、他の道、他の扉は一切感覚し得ないのである。故に、迷うことなく、自分の道を自分で進み、その与えられた最もふさわしい世界に落ち着くのである。

他から見て、それが苦の世界、不純な世界に見えようとも、当の本人には楽天地なのである。何故ならば、一の世界に住むものには、二の世界は苦の世界となり、二の世界に住むものには一の世界はまた苦の世界と感覚するからであって、いずれも自ら求める歓喜にふさわしい世界に住するようになっているのである。

また一の世界における善は、二の世界では善ではなく、二の世界の真が一の世界においては真でない場合も生じてくる。しかし、そのすべての世界を通じて、さらに高き・に向かって進むことが、彼等の善となるのである。

・は中心であり、大歓喜であり、神である。死後の世界に入る時に、人々はまず自分の中の物質を脱ぎ捨てる。生存時においては物質的な自分、すなわち肉体、衣類、食物、住宅等が主として感覚の対象となるから、そのものが生命し、かつ自分自身であるかのごとくに感じるのであるが、それは自分自身の本体ではなく、外皮に過ぎない。

生長し、考慮し行為するものの本体は、自分自身の奥深くに秘められた自分、すなわち霊の自分である。

霊の自分は、物質世界にあっては物質の衣をつける。故に、物質的感覚は、その衣たる物質的肉体のものなりと錯覚する場合が多いのである。

しかし、肉体を捨てて霊界に入ったからといって、物質が不要となり、物質世界との因縁がなくなってしまうのではない。

死後といえども、物質界とは極めて密接なる関係に置かれる。何故ならば関連なき霊界のみの霊界はなく、霊界と関連なき物質のみの物質界は、呼吸し得ないからである。

生前の霊界、生後の物質界、死後の霊界のいずれもが不離の関係に置かれて、互いに呼吸し合っている。

例えば、地上人は生前世界の気を受け、また死後の世界に通じている。現実世界で活動しているが、半面においては生前の世界ともまた死後の世界とも深い関連をもっており、それらの世界においても、同時に活動しているのである。


第十八帖(394帖)

神から出る真・善・美・愛の用はたらきに奉仕するのが霊人たちの生命であり、仕事であり、栄光であり、歓喜である。

故に、霊界における霊人たちの職業は、その各々の有する内分により、段階によって自ら定まる為にその用は無数であり、かつ千変万化する。

歓喜第一、神第一の奉仕が霊人の職業である。故に、自分自身の我が表に出た時は、力を失い、仕事を失い、苦悩する。

霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多種であるが、より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進であり、喜びであることが知られる。

そして、そのいずれもが神の秩序、すなわち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の用はたらきをなしているのである。

故にいずれの面の用をなすとも、自己というものはなく、弥栄あるのみ、神あるのみとなる。

なお注意すべきことは、霊界において、権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じているということである。すなわち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのである。

為に、命令的なものはない。ひたすら奉仕があるのみである。

その奉仕は地上人であった時の職業と相通じるものがある。なぜならば霊と物とは対応しているからである。生前は生後であり、死後はまた生前であって、春秋日月の用を繰り返しつつ弥栄ている。

従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。陽人と陰人とである。

陽人は陰人のために存在し、陰人は陽人のために存在する。太陽は太陰により弥栄え、太陰は太陽によって生命し歓喜するのである。この二者は絶えず結ばれ、また絶えず反している。故に二は一となり、三を生み出すのである。これを愛と信の結合、または結婚とも称されている。

三を生むとは、新しき生命を生み、かつ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である。

歓喜は、物質的形体はないが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現われるものである。

霊界における春は、陽であり、日と輝き、かつ力する。秋は陰であり、月と光り、かつ力する。

この春秋の動きを、また歓喜と呼ぶのである。春秋の動きあって神は呼吸し、生命するとも言い得る。また悪があればこそ生長し、弥栄し、かつ救われるのである。

故に神は悪の中にも善の中にもまた善悪の中にも悪善の中にも呼吸し給うものである。


第十九帖(395帖)

天国の政治は、歓喜の政治である。故に戒律はない。

戒律の存在するところは、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。天国の政治は、愛の政治である。政治する政治ではない。より内奥のより浄化されたる愛そのものからなされる。故に、与える政治と現われる。

天国は限りなき団体によって形成されている。そして、その統治は、各々の団体における最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。統治するものは一人であるが二人であり、三人として現われる。

三人が元となり、その中心の一人は「・」 によって現わされ、他の二人は「⦿」によって現わされる。「⦿」は、左右上下二つの動きのを為すところの立体からなっている。

統治者の心奥の・は、さらに高度にしてさらに内奥に位する・の中の・によって統治され、立体をなしている。

天国ではこの・をスの神と敬称し歓喜の根元をなしている。

スの神は、アの神と現われ給いオとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである

これが総体の統治神である。三神であり、二神である。

ア・オ・ウは愛であり、エ・イは真である

これら天国の組織は、人体の組織と対応し天国の一切の事象と運行とは人体のそれに対応している。

オ・ウなる愛は曲線であり、心臓である。エ・イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈打ち、呼吸しているのである。

これらの統治者は権力を奪することなくまた指令することもない。よりよく奉仕するのみである。

奉仕するとは、いかにしてよりよく融和し善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなしこれらのすべてを神の力と生かしさらに高度な大歓喜に至らんかと努力することである。

また統治者自身は、自分たちを他の者より大いなる者とはせず他の善と真とを先とし、その歓喜をまずよろこび己はその中に融け入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり団体の歓喜となるのである。

指令することは、戒律をつくることであり戒律することが神の意志に反することをこれらの統治者は、よく知っている。

天国における政治の基本は、以上のごとくであるがさらに各家庭においては同一の形体をもつ政治が行われている。一家には一家の中心たる主人、すなわち統治者がおり、前記のごとき原則を体している。

またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。その働くとは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。

すなわち、歓喜の政治であり、生活であり、信仰である。

天国における天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受けより高き歓喜に進んで行くことである。

けれども、天国における礼拝は、地上人のそれのごとき礼拝ではない。礼拝生活である。すべてと拝み合い、かつ歓喜し合うことである。

与えられたる仕事を礼拝し仕事に仕えまつる奉仕こそ天国の礼拝の基本である

故に、各々の天人、天使の立場によって礼拝の形式、表現は相違している。しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であるという点は一致してる。

地上的礼拝は、形式の世界たる地上においては一つの生き方であるが、天国に於ける礼拝は千変万化で、無限と永遠に対するものである。

無限と永遠は常に弥栄えるが故に生じるものであり、その弥栄が神の用はたらきである。

森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見てこの無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。

天国の政治は、光の政治である。天国にも地上のごとく太陽がありその太陽より、光と熱を発しているが天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。

一は月球のごとき現われ方である。一は火の現われ、火の政治であり一は水の現われ、水の政治である。

愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。

月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何いかんによるのであって神は常に光と、熱として接し給うのである。

またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。光と熱とは、太陽そのものではない。太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。

光と熱とは、そこより出づる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。このことをよく理解するが故に天国の政治は、常に光の中にありまた熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。

天国の太陽よりは、真と愛が常に流れ出ているがその真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく現われ出たものが真と見え愛と感じられるのみである。太陽の内奥は大歓喜が存在する。

故に高度の天人の場合は、愛も真もなくはるかにそれらを超越した歓喜の・が真・善・美・愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。

歓喜は、その受け入れる天人、天使、霊人地上人たちの持つ内質の如何によって千変万化し、また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。