第二十帖(637帖)

任まかせ切らねばマコトの安心立命りつめいないぞ、任せ切るには任せ切って安心出来る神を掴つかまねばならん、お蔭かげ信心や病気治しの神では任せ切れまいがな、早く合点結構ぞ、大きな生命に通じる者には死は無いぞ、通じなければ死あるぞ


第二十一帖(638帖)

身も心も嬉し嬉しとなるのが誠の神じゃ、ものの嬉しさだけではゼロじゃ、タマの嬉しさだけでもゼロじゃ、よく心得なされよ

死後のみ説く宗教はゼロの宗教じゃ、迷うでないぞ、この世で天国に住めん者が天国に行ける道理ないのじゃと申してあろう

神は人間の命、人間は神の容れものであると申してあろう、人間の極まるところは神であるぞ、霊人は中間の存在ぞ、人間は神への土台ぞ、この道理分かるであろうがな

⦿は三五七ぞ、三の⦿から三五の⦿、三五七の⦿


第二十二帖(639帖)

顔まで変わっているのに未だ気づかんのか、皆が病気になっているのに未だ気づかんのか、何事も早い改心結構、自分で自分の心の中は中々に掴つかめんものであろうがな、その中に又心あり、又中に心があるのじゃ、心は神界ぞ、霊界や神界のものを肉体の自分で掴もうとしても中々じゃ、鰻うなぎ掴みと申してあろうが、ヌラリクラリと掴んだ筈はずが掴んでないぞえ、掴むには身と魂と一つに和せねばならん

・は喜びであるぞ、・の別の・であるぞ、その・から又別の愛と智が生まれ、又別の・が喜びとなり、その喜びの愛と智の喜びと結んで又喜びの・生まれるのじゃ

神は額ひたいから入って、顔全体に至り、全身に及ぶものであるぞ


第二十三帖(640帖)

何事も体験結構、今の人民の迷信と思うものの中に正信せいしんあるぞ、正信と思うものの中に迷信多いぞ、理解は正信

神の気が通ったらその気を人間にうつす御役おやく、救いの御役を結構につとめあげてくれよ

自分の自由にならんことは大き自分が自由にしているのであるぞ、神となれば、神人となれば、何事も心のまま、神とは神、大神とは⦿一十のこと


第二十四帖(641帖)

悪とはカゲのことであるぞ、斜めに光を頂くから影出来るのじゃ、影は主人でないぞ

絶対は何と申しても絶対ぞ、相対から神を求めると相対の神が顕あらわれるぞ、相対で神の道に導くこと中々じゃ、必ず後戻り、分かりはせんぞ

この神示が肚はらに入ったらグレンと変わって来るぞ、早く肚に入れて下されよ、間に合わんぞ

天の声は内から聞こえて来る、人間の言葉は外から聞こえて来る、霊耳れいじと申すのは内からぞ、耳塞いでも聞こえて来るのじゃ、悪霊自身は自身を悪と思ってないぞ


第二十五帖(642帖)

心は草にも木にも石にもあるぞ、天にまたたく星にもあるぞ、ただ薄いか厚いかの相違であるぞ

・ の中の・に悪は入れんのであるぞ、外の・の中に外の智の中に悪が入るのじゃ、人間の智に中には悪も善も入るぞ、入るからこそこれは善じゃ、これは悪じゃと分かるのじゃ、人間の自由はそこにあるのじゃ、自由なければ発展ないぞ、弥栄ないぞ

霊を信じる者は霊と語り、肉を信じる者は肉と語り得るのじゃ、人間そのものから湧き出づる喜びは無いぞ、よく心得なされよ


第二十六帖(643帖)

神は理屈ではない、理ことわりであるぞ、生きた自由自在の見当取れん絶対であるぞ、只ただ求めるより他に道ないぞ、親呼ぶ赤児の声で神を求めよ、神に呼びかけよ、総てを投げ出せよ、任せ切れよ、神は喜びの光となってそなたに現われて来るぞ、理屈の信仰に囚われると邪道、赤児心あかごごころの理解が第一ぞ


第二十七帖(644帖)

神は人間の想念そうねんの中に入っているのじゃ、想念が一致するから神の想念が人間に伝わるのぞ、人間の言葉となって人間に現われる、言ことばは神であるが人間でもあるぞ、自分が自分に語るのであるぞ、この道理、よく心得なされよ、時待って起き出て下されよ

うらみの霊は中々にとけんぞ、思いは能はたらき、実在と申してあろうが、間違いでも恨まれると恨みがまといつくぞ、心して神を求め、心して幽界からのキ断ちて下されよ、分かったと思ったら天狗ぞ、省かえりみると良くなる仕組み


第二十八帖(645帖)

喜びに融け入るから嬉しいのぞ、喜びから遠ざかるから悲しいのぞ、そんなこと分かっていると申しているが、ほんとうに身体に分かっていまいぞ、喜びに入る門は愛からじゃ、真からじゃ、二道あるなれど愛から入るのが入り易いが愛からでは誤り易い、生れてすぐ歩けるものでないぞ、始めから何もかも出来るものでない、気長に進んで行けよ

内の念と外の念と二つあるぞ、一つであるぞ、三つであるぞ、心大きく広く天地に放さねば天地のキを吸うこと出来んぞ


第二十九帖(646帖)

運命は自由自在のものではあるが、又また強いるものでもあるぞ、大きくも小さくも薄くも厚くもその人の心次第に変わるぞ、元は霊界にあるからぞ、嬉し嬉しで運命を迎える気は結構ぞ

この世の事だけでこの世のこと動かんぞ、霊界との関係によって、この世が動いている道理分からねばならん、遠慮いらん、早く神の心になって神意しんいを悟れよ、何事も天から出て来るのじゃ、天からとは心からのことじゃ


第三十帖(647帖)

表ばかり見ているから分からんのじゃ、水晶の心なれば三千里先のこともありやか、人民と言うものは奇跡を見ても病気になっても、中々改心出来んものじゃ、死後の生活がハッキリ分かっても未だ改心出来んのじゃ、それは外からのものであるからじゃ、誠の改心は、中の中の・のキ頂いて、発根ほっこんの改心出来ねばならん

死後の生活を知らせる事はよいなれど、それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方、奇跡を見せ、病気を直してやるのもよいのじゃが、それのみによって改心を迫ってはならん、それのみで道を説いてはならんぞ、そんなこと位で誠の発根の改心が出来るならば、人間は遠とうの昔に改心して御座るぞ、今までの様な宗教は亡びると申してあろうが、亡びる宗教にして下さるなよ


第三十一帖(648帖)

中の自分と外の自分と和せよ、それが改心の第一歩、聞かせて聞くならば実地は型かたの型位で済むなれど、よく入ると邪気湧く、邪気湧くと邪霊集まるぞ

肉体人に神は直接分からんものぞ、神は能はたらき、神の働きの影しか分からんものぞ、神の姿を見たと申すのは神の姿の影を自分の心に描き出したまでであるぞ、心に分かっても肉体に分かるものでないぞ

肉を魂とせよ、魂を魂の魂と向上させよ、ひらけ来るぞ、何事も咎とがむでないぞ、咎む心は天狗ぞ、神の前にへり下りへり下っても尚過ぎると言うこと無いのじゃ

人間は、色とりどり、それぞれの考え方を自由に与えてあるのだから、無理に引っ張ったり、教えたりするでないぞ、今あるもの、今生きているものはたとえ極悪だと見えても、それは許されているのであるから、あるのであるぞ、他を排すでないぞ


第三十二帖(649帖)

祈りとは意が乗ることぞ、霊の霊と霊と体と合流して一つの生命となることぞ、実力であるぞ、想念は魂、魂は霊であり、霊の世界に属し、霊に生きるのであるぞ

ものは霊につけられたもの、霊の霊は、霊につけられたものであるぞ、ものにはものの生命しかない、真の生命は霊であるぞ、生命の元基の喜びは霊の霊であるぞ、霊の霊が主だと申してあろう

奥の奥の奥の・は大神に通じる・であるぞ、喜びであるぞ、・ある為に人間となり、人間なるが故に神となり、神なるが故に喜びであるぞ、他の生き物にも・はあれど、外の・であるぞ


第三十三帖(650帖)

神が映らぬと申しているが、心をやわらかくして任せ切れば刻まれるぞ、神の前に固くなってはならん、平らかにすれば正しく写り凹凸でこぼこすれば曲がって映る、人間は肉体を持っている間でもその霊は霊の国に住んで居り、霊の霊は、霊の霊の世界に住んでいるのであるぞ、この道理よくわきまえよ

愛は脈うっているぞ、真は呼吸しているぞ、肉体にあっては肺臓は呼吸し心臓は脈うつ、この二つが一つであって肉体を生命する、喜びと三つが一つであるのぞ、霊にあっては霊の心臓、霊の肺臓、喜びであるぞ


第三十四帖(651帖)

祈りは弥栄であり、限りない生活であるぞ、生命のイキであるぞ、祈りから総すべてのもの生まれるぞ、誠の喜びの祈りからは・が生命し、影の祈りからは〇が生命するぞ、人祈れば神祈り、人為せば神なる道理じゃ

禁欲は神の御旨でないぞ、慾よくを導けよ、慾を浄化して、生めよ、産めよ、今の人民、慾の聖化を忘れて御座るぞ、慾は無限に拡がり、次々に新しきもの生み出すぞ

自分だけならば五尺の身体、五十年の生命であるが、霊を知り、宇宙の意志を知り神に融け入ったならば、無限大の身体、無限の生命となるぞ、誠の嬉し嬉しの喜びとなるのであるぞ


第三十五帖(652帖)

キが到いたれば物が到る、物を求める前にキを求めよ、目標無しに歩いたとて、くたびれもうけばかり、人生の目標、行く先の見当てつけずに、その日暮らしの我よしの世となり下がっているぞ、目標は⦿の・でないか、・に向かないでウロウロ、草木より成り下がっているでないか、為すことは祈ること、人の為に祈ること、今の人民は祈り足らん


第三十六帖(653帖)

天界に行く門は輝き幽界に行く門は闇であるぞ、闇の門は閉ざされ、光の門は開かれているぞ、天界は昇り易く、幽界は落ちにくいぞ

神と金と二つに仕える事は出来ん、そのどちらかに仕えねばならんと今までは説かしていたのであるが、それは段階の低い信仰であるぞ、影しか分からんから、時節が来て居らんから、そう説かしていたのであるが、この度、時節じせつ到来したので誠の道理どうり説いて聞かすのじゃ

神と金と共に仕えまつるとは肉と霊と共に栄えて嬉し嬉しとなることぞ、嬉し嬉しとはそのことであるぞ、神と金と二つとも得ること嬉しいであろうがな、その次には霊の霊とも共に仕えまつれよ、まつれるのであるぞ、これが、誠の正しき理みちであるぞ

今までの信仰はどこかに寂しさ、もの足り無さがあったであろうが、片親がなかったからぞ、天に仕えるか、地に仕えるかであったからぞ、この道はアメツチの道だと知らせてあろうが、清くして富むのがまことじゃ、地も富まねばならんのじゃと申してあろうが

これから先は金儲けばかりも出来ん、今までの様な、神信心かみしんじんばかりも出来ん、神の理みちを進む者は嫌でも金が貯まるのじゃ、金が貯まらねば深く省みよ、理みちに外れて御座るぞ、人は罪の子でない喜びの子ぞ


第三十七帖(654帖)

宇宙は人間の心のままと申してあろうが、宇宙は未完成のものと申してあろうが、永遠に未完成であり、弥栄であるぞ、そこに生命あり、喜びあるのじゃ

大神の中で、宇宙はなりなりているのであるから、ナリ、永遠になるのであるぞ、不変の中に千変万化自由自在の存在を与えてあるのじゃ


第三十八帖(655帖)

人間の死後は自分の命の最も相応ふさわしい状態におかれるのであるぞ、悪好きなら悪の、善好きなら善の状態におかれるのであるぞ、皆々極楽ごくらく行きじゃ、極楽にもピンからキリまであるぞ、神の旨みむねに添う極楽を天国と言い、添わぬ極楽を幽界と申すのじゃ

心の世界を整理せよ、そこには無限のものが無限にあるのであるぞ、神の理みちが分かれば分かっただけ自分がわかる、目出度めでたさの九月八日の九の仕組み、融け解けて流れて世界一つじゃ、白銀、黒鉄、これで終わり


第三十九帖(656帖)

ひふみ神言

ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら

ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら

あめつちの数歌

ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここノ、たり

ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここノ、たり

ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここノ、たり

もも、ち、よろず

ひふみ祝詞(柏手を打ちながら)

ひふみ よいむなや こともちろらね

しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか

うおえ にさりへて のますあせゑほれけ~

いろは祝詞(柏手を打ちながら)

いろは にほへとち りぬるをわかよ

たれそ つねならむ うゐのおくやま

けふこ えてあさき ゆめみしゑひもせすん

アイウエオ祝詞(柏手なし)

(ン、ウ)アイウエオ カキクケコ サシスセソ

タチツテト ナニヌネノ ハヒフヘホ マミムメモ

ヤヰユエヨ ラリルレロ ワヰウエヲ(ウ、ン)