第一帖(770帖)
宇宙は霊の霊と物質とからなっているぞ、人間もまた同様であるぞ、宇宙にあるものは皆人間にもあり、人間にあるものは皆宇宙にあるぞ
人間は小宇宙と申して、神のヒナ型と申してあろう、人間には物質界を感知するために五官器があるぞ、霊界を感知するために超五官器あるぞ、神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ、この点を誤るなよ
霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ、幽界的自分が副守護神じゃ、本守護神は大神の歓喜であるぞ
神と霊は一つであって、幽と現、合わせて三ぞ、この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ、ゆえに肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もない、神界から真っ直ぐに感応する想念そうねんを正流せいりゅうと申す、幽界を経へてまた幽界より来る想念を外流がいりゅうと申すぞ
人間の肉体は想念の最外部最低部をなすものであるから、肉体的動きの以前において霊的動きが必ずあるのであるぞ、ゆえに人間の肉体は霊の入れものと申してあるのぞ
また物質界は霊界の移写うつしであり衣ころもであるから、霊界と現実界また霊と体とはほとんど同じもの、同じ形をしているのであるぞ、故ゆえに物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界は無いのであるぞ
人間は霊界より動かされるが、また人間自体よりかもし出した霊波は、反射的に霊界に反影はんえいするのであるぞ、人間の心の凹凸によって一つは神界に、一つは幽界に反影するのであるぞ、幽界は人間の心の影が生み出したものと申してあろうがな
総すべては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に大神が生み給うたのであるぞ、この事よくわきまえて下されよ、善のこと悪のこと、善悪のこと良く分かって来るのであるぞ、故に人間の生活は霊的生活、言ことの生活であるぞ、肉体に食うことあれば霊にもあり、言ことを食べているのが霊ぞ、霊は言ぞ、この点が最も大切なことじゃから、くどく申しておくぞ
死んでも物質界とつながりなくならん、生きている時も霊界とは切れんつながりあることをとくと会得せよ、そなた達は神をまつるにも、先祖まつるにも物質の目当てつくるであろうがな、それはまだまだ未熟な事ぞ、死後に於いても、現実界に自分がある、それは丁度、生きている時も半分は霊界で生活しているのと同じであるぞ
自分の衣は自分の外側であるぞ、自分を霊とすると、衣は体、衣を着た自分を霊とすれば家は体、家にいる自分を霊とすれば土地は体であるぞ、更に先祖は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ、兄弟姉妹は最も近い横の自分であるぞ、人類は横の自分、動植、鉱物は更にその外の自分であるぞ、切り離すことは出来ん
自分のみの自分はないぞ、縦には神とのつながり切れんぞ、限りなき霊とのつながり切れんぞ、故に神は自分であるぞ、一切は自分であるぞ、一切が喜びであるぞ、霊界に於おける自分は特に先祖との交流、交渉が多いぞ、よって自分の肉体は自分のみのものでないぞ、先祖霊と交渉深いぞ、神はもとより一切の交渉あるのであるぞ
その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ、中間に属するものもあるぞ、神界に属するものは、正流を通じ、幽界に属するものは外流を通じて自分に反応して来るぞ
正流に属する祖先は正守護神の一柱であり、外流に加わるものは副守護神の一柱と現われて来るのであるぞ、外流の中には動植物霊も交じって来ることあるぞ、それは己の心の中にその霊と通ずるものあるためぞ、一切が自分であるためぞ、常に一切を浄化せねばならんぞ、霊は常に体を求め体は霊を求めて御座るからぞ、霊体一致が喜びの根本であるぞ
一つの肉体に無数の霊が感応し得るのだぞ、それは霊なるが故にであるぞ、霊には霊の霊が感応する、また高度の霊は無限に分霊するのであるぞ
二重三重人格と申すのは、二重三重の憑つきものの転換によるものがあり、群衆心理は一時的の憑依ひょうい霊であると申してあろうがな、霊が元と申してくどく知らせてあろうが
人間は現界霊界と共に住んで居り、その調和をはからねばならん、自分は自分一人でなく、タテにもヨコにも無限に繋がっているのであるから、その調和をはからねばならん、それが人間の使命の最も大切なことであるぞ
調和乱すが悪ぞ、人間のみならず、総すべて偏かたよってはならん、霊に偏ってもならん、霊も五、体も五と申してあろう、じゃが主は霊であり体は従ぞ、神は主であり、人間は従であるぞ、五と五で同じであると申してあろう、差別則平等さべつそくびょうどうと申してあろう、取り違い禁物ぞ
神は愛と現われ、真まことと現われるのであるが、その根は喜びであるぞ、神の子は皆喜びじゃ、喜びは弥栄ぞ、じゃが喜びにも正流と外流とあるぞ、間違えてはならんぞ
正流の歓喜は愛の善となって現われ、また真の信と現われるぞ、外流の喜びは愛の悪となって現われるぞ、いずれも大神の現われであること忘れるなよ
悪を抱き参らせて進むところに誠の弥栄あるのであるぞ、神は弥栄ぞ、これで良いと申すこと無いのであるぞ、大完成から超大大完成へ向かって常に弥栄しているのであるぞよ、宇宙は総てに於おいても個々に於いても総て喜びから喜びに向かって呼吸しているのぞ、喜びによって創られて喜んでいるのであるぞ、故に喜びなくして生き無いぞ、合一は無いぞ
愛は愛のみでは喜びで無いぞと申してあろう、真は真のみでは喜びで無いと申してあろうが、愛と真と合一し、・するところに陰と陽と合一、弥栄したところに喜びあるのじゃぞ、この巻は冬の巻、五月五日の佳き日、ひつく神
補帖(771帖)
病開くことも、運開くことも皆己おのれからじゃと申してあろう、誰でも何でも良くなるのが神の道、神の御心、親心じゃ、悪くなると言うこと無いのじゃ
迷いが迷い生むぞ、もともと病も不運もない弥栄のみ、喜びのみじゃ、神が喜びじゃから、その生んだものみな喜びであるぞ、この道理よくわきまえよ
毎日毎日、太陽と共に太陽について起き上がれよ、その日の仕事与えられるぞ、仕事を命と仕えまつれよ、朝寝するからチグハグとなるのじゃ、不運となるのじゃ、仕事なくなるのじゃ
神について行く事が祈りであるぞ、喜びであるぞ
食物を食べ過ぎるから病になるのじゃ、不運となるのじゃ、口から出るもの入るものに気つけよ
戦いくさが起こるのじゃ、人間の病や戦ばかりでない、国は国の世界は世界の山も川も海もみな病となり、不運となって来るぞ
食べないで死ぬことないぞ、食べるから死ぬのじゃぞ、一椀をとって先ず神に供えよ、親に捧げよ、子に捧げよ、腹八分の二分は捧げよ
食物こそは神から、親から与えられたものであるぞ、神に捧げずに貪むさぼるからメグリ積むのじゃ、メグリが不運となり、病となるのじゃぞ、運ひらくのも食物慎つつしめばよい、言葉慎めば良い、腹十分食べてはこぼれる、運は詰まってひらけん、この分かり切った事、何故に分からんのじゃ
捧げるからこそ頂けるのじゃ、頂けたら捧げると今の人民申しているが、それがウラハラと申すもの
衣類も家も土地も、みな神から頂いたので無いぞ、預あずけられているのであるぞ、人民に与えられているものは食物だけじゃ、日の恵み、月の恵み、地の恵みだけじゃぞ、その食物節せっしてこそ、捧げてこそ、運開けるのじゃ、病が治るのじゃ
人民日干ひぼしにはならん、心配無用、食物、今の半分で足りると申してあろうが、遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ、運が開け、病治ってうれしうれしと輝くぞ
そんなこと位で、病治ったり運開ける位なら人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理屈と申すもの、理屈は悪と申してあるもの、低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ
理屈を捨てよ、捨ててやって見なされ、皆々気づかん理みち、気づかん病になっているぞ
ツキモノがたらふく食べていることに気づかんのか、食物節すればツキモノ改心するぞ、先まず百日をめあてに、百日過ぎたら一年をめあてに、三年続けたら開運かいうん間違いなし、病も無くなってうれしうれしとなるぞ、三年目、五年目、七年目めでたいナァ、めでたいナァ