第一帖(611帖)

天地の理ことわりを書き知らすぞ、この巻は白金しろかねの巻、天国じゃ地獄じゃ浄土じゃ穢土えどじゃと申しているが、そんな分け隔ては無いのであるぞ、時、所、位に応じて色々に説き聞かせてあるのじゃが、時節到来したので誠の天地のことわりを書き知らすぞ

三千の世界の中の一つがそなた達の世界であるぞ、この世もまた三千に分かれ更に五千に分かれているぞ、この方五千の山にまつれと申してあろう、今の人民の知り得る世界はその中の八つであるぞ、人民のタネによっては七つしか分からんのであるぞ、日の光を七つと思っているが八であり、九であり、十であるぞ

人民では六つか七つにしか分けられまいが、岩戸が開けると更に九、十となるぞ、隠してある一厘りんの仕組み、九十ことの経綸けいりん、成就した暁には何も彼も分かると申してあろうが

八つの世界とはア、オ、ウ、エ、イであるぞ、八は、七は、六は、五は、四は霊の固、三は霊の液、二は霊の気、一は霊のキ、と考えてよいのじゃ

キとは気の気であるぞ、その他に逆の力があるぞ、九と十であるぞ、その上に又霊の霊の個から始まっているのであるが、それはムの世界、無限の世界と心得よ

霊界に入って行けば、その一部は知れるなれど、皆直ちには分からないのであるぞ、分からんことは分からんと、分からねばならんと申してあろうがな

天、息吹けば、地、息吹くと申してあろう、このことよくわきまえよ、地の規則、天の規則となることあると申して知らせてあろう、この大切こと忘れるでないぞ、思い想いの世界が天ぞ、肉の世界が地ぞ、思いは肉体と一つぞ、二つぞ、三つぞ、思いが起こって肉体動くぞ、肉体動いて思いが動くこともあるぞ、生まれ赤児の心になって聞いて下されよ、何もかも、ハッキリ映るぞ

陰と陽、右と左、上と下、前と後、男と女と考えているなれど、タカミムスビとカミムスビと考えているなれど、別のミナカヌシ、現われるぞ、 、、よく見て下されよ、一であり、二であり、三であろうがな

三が道と申してあろう、陰陽二元でないぞ、三元ぞ、三つであるぞ、・がなくてはならん、・にも隠れた・と現われた・とがあるぞ、このこと先ず心得て下されよ、そなた達は父と母と二人から生まれ出たのか、そうではあるまいがな、三人から生まれ出ていること分かるであろうがな

どの世界にも人が住んでいるのであるぞ、⦿の中に⦿があり、その中にまた⦿があり、限り無いのだと知らせてあろうが、そなた達の中にまた人が居て限り無いのじゃ、この方人民の中にいると知らせてあろうがな、そなた達も八人、十人の人によって生きているのぞ、また十二人でもあるぞ

守護神と申すのは心のそなた達のことであるが、段々変わるのであるぞ、自分と自分と和合せよと申すのは八人十人のそなた達が和合することぞ、それを改心と申すのぞ、和合した姿を善と申すのじゃ

今までの宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしていたが、それが間違いであること合点か、一切がよいのじゃと云うこと合点か、地獄ないこと合点か、悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か、合点じゃなぁ

各々の世界の人がその世界の神であるぞ、この世ではそなた達が神であるぞ、あの世ではそなた達の心を肉体としての人がいるのであるぞ、それがカミと申しているものぞ、あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ

あの世の上の世では神の心を肉体として、神がいますのであって限りないのであるぞ、裏から申せば、神様の神様は人間様じゃ、心の守護神は肉体じゃと申してあろうがな

肉体が心を守っているのであるが、じゃと申して肉体が主人顔してはならんぞ、何処までも下に従うのじゃ、順乱すと悪となるぞ、生まれ赤児を踏み越え、生まれ赤児になって聞いて下されよ

そなた達の本尊は八枚十枚の衣着ているのじゃ、死と云うことは、その衣、上から脱ぐことじゃ、脱ぐと中から出て来てまた八枚十枚の衣つけるようになっているのじゃ、分かるように申しているのじゃぞ、取り違いせんようにせよ

天から気が地に降って、ものが生命し、その地の生命の気がまた天に反影はんえいするのであるが、まだまだ地には凸凹があるから、気が天に帰らずに横にそれることあるぞ

その横の気の世界を幽界と申すのじゃ、幽界は地で曲げられた気の作り出したところじゃ、地獄でないぞ


第二帖(612帖)

分かるように申すならば、宇宙は ・真と愛との現われであるぞ、愛と真ではない、愛真でもなく善知でもないぞ、・、愛真、善智であるが、愛と真が善と智と現われ、喜びとなってはたらき・が加わって弥栄えた生命であるぞ

愛のみと言うものないぞ、真のみと言うものもないぞ、愛と現われ真と現われるのであるぞ、人間には現われたものだけしか分からんのであるが、言ことわけて申すならば愛には真が隠れ真には愛が隠れ、その奥に・があるのじゃ

人間は親を父と母とに区別しているが、母と現われる時は父その中に居り、父と現われる時はその中に母いるのであるぞ、何れも親であるぞ、父となり母となり現われるのであるぞ

愛と真、善と智と区別して説かしておいたが、それは今までのこと、いつまでもそんなところでまごまごさしてはおけんぞ、・が分からねばならん、・の ・が分からねばならん、男の魂は女、女の魂は男と申してあろう

人間の目に愛と映るものは外の愛、真と映るものは外の真ぞ、中から申せば外は御役の悪であるぞ、今が過去で今が未来ぞ、時間にふみ迷うなよ、空間にふみ迷うでないぞ、皮一枚脱いで心でよく考えなされ、いつも日が出ているでないか、月輝いているでないか、力そのものに力はないのであるぞ、霊と肉の結びのみで力現われるのでないぞ

プラスとマイナスと合わせて組みて力出ると思うているのであろうが、一歩踏み出さねばならんぞ、プラスとマイナスと合わせたのではプラスとマイナスぞ、力ちから出ないのぞ、・の力が加わってそこに喜びが出て理ことわりとなり、なり、なりて真実と現われるのぞ、弥栄が真実ぞ・神ぞ・神の心ぞ

竜神と申しているが竜神にも二通りあるぞ、地からの竜神は進化して行くのであるぞ、進化を嘘だと思うは神様迷信ぞ、一方、天からの竜神は退化して行くのであるぞ、この二つの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ、人間は土でつくって、神の気入れてつくったのだと申してあろうがな

岩戸閉めと岩戸開きの二つの御用のミタマあると申してあろう、ミタマの因縁恐ろしいぞ

愛と智は呼吸して喜びとなるのであるぞ、よろこびは形をとる、形なく順序なきもの〇であるぞ、善と真のはたらきを完全にするには善と真との差別をハッキリとさせねばならんぞ

け合わせ、結んでヨロコビと現われるのであるが、区別することによって結ばれるのであるぞ、・しなければならん、すればする程力強く融け合うのであるぞ、大き喜びとなるのであるぞ、このこと日月の民には分かるであろうな、道は三つぞ、合点じゃなぁ

小の中に大あるぞ、無の中に有うが有あるぞ、もの益々ますます小さければ、益々清ければ、益々内に大きなものあり、益々純なものあるぞ、神はそなたの中にあるが外にもあると申してあろうがな

よく見て下されよ、愛はそのまま愛でないぞ、真はそのまま真でないぞ、善はナマでは善でないぞ、智はナマでは智でないぞ、・を入れて結んで解けてヨロコビとなるのぞ、ヨロコビ生命ぞ、宇宙の総て生命であるぞ


第三帖(613帖)

⦿の中の・の中の⦿は一であり二とひらき三と生命するぞ、理みちは一で二で、三であると申してあろう、一も二も三も同じであり違って栄えるのぞ、一二三ひふみであるぞ、このこと教えられても分かるまい、肚はらで分かる大切なこと、肚が大切ぞ

かたま(※よ?)ってはならん、・ に捉われると 「・」 は分からん、地の定規で測ってはならん、如何なる天国も自分でつくるのぞ、ソロバン捨てよと申してあろうがな

喜びは理みちぞ、数ぞ、言ぞ、真理ぞ、愛善ぞ、生命のイキと言うこと分かるであろう

天国と申すのは一人の大きな人間であるぞ、天国は霊人のみの住む所でないぞ、そなた達も今住んでいるでないか、霊人も現界に住んでいるでないか、現界を離れて天国のみの天国は無いのであるぞ、故にこそ、現界で天国を生み出し、天国に住めん者が死んで天国へ住める道理ないのじゃ、アメツチと申してあろう、この道理よくわきまえよ

善悪とか真偽とか愛憎とか申すのは相対の天国ぞ、誠の天国には喜びのみが生きているのであるぞ、喜びの中に融け入って喜びのものとなっているのであるぞ、喜びを食し、喜びを着て、喜びを呼吸し、喜び語り合って嬉し嬉しとなるのぞ、要らんものは形が変わって来る、新しき生命湧き出るのであるぞ

善が悪と、真が偽と変わった時は死となるぞ、その死は新しき別の生命と現われて、新しき形の、新しき世界の善となり真となるのぞ、善も悪もないのだと申してあろう、善悪はあるが無いのだと申してあること分かったか

自分自身、己の為の善は死し善の為の善は弥栄えるぞ、死んだものは新しき形をとって生命するのであるぞ、弥栄の道、神の喜び人間の喜びの中にあるぞ

愛だと申して愛に囚われて御座るぞ、真だと申して真に囚われて御座るぞ、宗教に囚われてはならん、道に囚われてはならん、喜びに生きよ、喜びに生きて、喜びに囚われるなよ、お互いに喜びの湧き出ずる事でなければ、真の愛でないぞ、真の理みちでないぞ

天国に理あると申すが今の人間の申したり考えたりする様な道でないぞ、道なき理と申してあろうが、喜びの理であるぞ、嬉し嬉しの理を早う合点せよ、生命栄えるもの皆喜びであるぞ、信仰とはその喜びの中に融け入ることぞ、生も死もなくなるのぞ、時間や空間を入れるから、知が通わなくなるのぞ


第四帖(614帖)

凸凹おうとつがあるから力現われるのぞ、凸凹があるために善のみでも呼吸し、また真のみでも呼吸するのであるぞ、偽善者も真を語り、真を伝え得るのであるぞ、愛を言い得るのであるぞ

幽界と申すのは凸凹のうつしの国と申してあろうがな、地獄では無いのぞ、仙人は幽界に属しているのだと聞かしてあろうが、取り違いして御座るぞ

愛は真と和して愛と生き、真は愛と和し、愛によって真の力現われるなれど、愛のみでも愛であるぞ、真のみでも真であるぞ、ただはたらき無いのぞ、能はたらきないもの力ないぞ、喜びないぞ、喜びないもの亡びるのぞ

・入らねば悪となるぞ、能はたらき無きもの罪ぞ、穢れぞ、善と悪と二道かけてならんぞ、理みちは一本と申してあろう、悪は悪として御役あるぞ、悪と偽りの中に悪の喜びあるぞ、悪と善との二道かけての悪でないぞ、心せよ

悪は悪にのみ働きかけ得るのであるぞ、善に向かって働いても、善はビクともせんのじゃ、ビクつくのは、悪に引き込まれるのは己おのれに悪あるからぞ、合わせ鏡と申してあろうが、悪の気断ちて下されと申してあろう

心の鏡の凸凹なくなれば悪映らないのぞ、悪は無きものぞ、無きとは力無きことぞ、悪あればこそ向上するのであるぞ、悔い改め得て弥栄するのであるぞ、人間の能はたらきあるのだぞ、・を忘れてはならん


第五帖(615帖)

人間に自由は無いのであるぞ、真の自由は大神にのみあるものぞ、大神の自由の一部がお喜びと共に流れ入り、神に流れ入った自由はまた神の喜びとなって人間に流れるから、人間自身は自由を持っていると信じるのであるぞ、本質的には自由は無いのであるぞ、人間には自由の影があり、反影はんえいあるのだぞ、それを人間は自由と心得ているのであるぞ

自由の反影あるから悪にも善にも陽にも陰にも為し得るのであるぞ、また進歩弥栄するのであるぞ、悪自由を、人間は自由と心得ているがそれは自由ではなく、自分自身を首を括くくるものぞ、善自由こそ真の自由であるぞ、自由は神から流れ出ると申してあろう

他の世界と交流するは他の世界に住む人間を通じてするのであるぞ、世界とは人間のことでもあるぞ、人間が世界であるぞ、よく心得なされよ、+と−と〇と ・であるぞ、+の陰には−があり、−の陰には+がある、その和の状態が〇である、・いのちするのであるぞ

+は+のみでは力ないぞ、−は−だけでは力ないぞ、+と−とだけでも動きないぞ、生命の喜びないのであるぞ、よく心得よ、〇があって+−があり、+−があり・があって和があるのであるぞ、ここの道理よく得心、合点せよ

+は人間にとって直接の喜びでない、が直々じきじきの喜びぞ、−も直接ではなく、が直接の喜びであり、その二つが和し・して嬉し嬉しと弥栄えるのであるぞ

天地の中間を中界と申す、天の息吹きと地の息吹きの中間ぞ、天国へ行くも行かんのも先ず落ちつく死後の始めての世界であるぞ


第六帖(616帖)

元の元の(ム)から(ム、(ウ、の中界を経て、ウの現界に至る悉ことごとくの世界が皆人間に関係あるのであるから、肉体はウであるが、魂は(ム)に通じているのであるから、(ム)はヨロコビであるから、喜びが人間の本体であるから、神界と言い、現界と言い一本の国であるから、人間からすれば人間が土台であるから、人間は神の礎いしずえであるから、神鎮まれば神人となるのであるから、神界、中界、現界貫いていなければ、誠の和合していなければ、誠の喜びでないから、誠の喜びが大神であるから、大神の働きは人間によるものであるから、心せねばならんぞ、・せねばならんぞ

天使と言い、天人と申すも皆それぞれの国の人間であるから、喜びの人間であるから、この道理分かったら地の世界と中の世界と天の世界と三千世界であるから、みな同じであるから、持ちつ持たれつであるから、地の上に禍わざわいあると天の国にも禍うのであるから、天の国の生活は地の上に根をつけているのであるから、遠くにあるのでないぞ、同じ所にあるのであるぞ

幽界と申すのは道を外れた国の事だと知らせてあろうが、地獄無いと申してあろうがな、このこと間違わんように

地獄地獄の言葉はやめて下されよ、言葉からモノ生むのぞ、ただモノが違うのみであるから、人間の心が神に通じるときは喜びとなり、幽界に通じるときは悲しみとなるのであるぞ、通じる心あるから心に自由、弥栄あるのであるぞ、この道理よくわきまえて下されよ

天人に結婚もあれば仕事も死もまたあるのであるぞ、死とは住む段階の違う場合に起こる現象ぞ、死とは生きることぞ

人間は皆、神懸かっているのであるぞ、神懸かっていない者は一人も居らんのじゃ、神懸からん者は呼吸せんのじゃ、このこと分かって居ろうがな、霊人は人間の心の中に住んでいるのであるぞ、心を肉体として住んでいるのじゃ、その中にまた住んでいるのじゃ、平たく説いて聞かしているのじゃ

霊人と和合しているから、神懸かりであるからこそ、三千世界に働き栄えるのじゃぞ、神界のことも幽界のことも分かる道理じゃ、人間の言う神懸かりとは幽界の神懸かりじゃ、ろくなこと無いのじゃ、神懸かりにも神懸かりと分からん神懸かりは結構じゃなぁ、誠じゃなぁと知らせてあるのにまだ分からんのか


第七帖(617帖)

天国が映って地が出来ているのだから、霊の国は更に立派、微妙ぞ、天界のもの光り輝き幽界のもの暗くなる違いあるだけじゃ、その時の状態によって変化するが、総ては神が与えたのじゃ、現界同様、与えられているのじゃと知らせてあろうがな

時間、空間もあるのであるが、無いのであるぞ、同じ状態にあれば同じところに住み、変化すれば別のところに住むのであるぞ、見ようと思えば、念の中に出て来て、見ること、語ることが出来るのじゃ、見まいとすれば見えんのじゃ、自分で見て自分で語るのじゃぞ、時、所、位、総てが想念の中、想念のままに現われて来るのであるぞ

分かるように申すならば、時間も空間も映像であって、情態じょうたいが変わるのみのことであるぞ、情態の元、本質は限りないから、無限であるから、自由であるから、霊界は無限、絶対、自由自在であるぞ

現界では、時間に順に得たものでも、心の中では時間に関係なく、距離に関係なく、一所に並べられるであろうがな、心の世界で、時間空間のない道理、これでよく分かるであろうがな