第一帖(377帖)

我々の一切は生まれつつまる。神も宇宙も、森羅万象悉ことごとくが、常に生まれつつまる。

太陽は太陽として、絶えず生まれ続けている。一定不変の神も無ければ、宇宙もない。

常に弥栄えつつ、限りなく生まれに生まれゆく。過去も無ければ、現在も無く、未来も無い。ただ存在するものが生まれに生まれつつある。

生も無ければ死も無い。善も思わず真も考えず、美も思わない。

ただ自分自身のみの行為は無い。ただ生まれ栄えるのみである。善を思い悪を思うのは、死を作り出すことである。

故に、地上人が自分自身でなすことは、すべて永遠の生命なく、弥栄はあり得ない。何故ならば、地上人は、地上的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。

思うことは行為することである。

生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。存在は生命であり、生まれつつあるもの、そのものである。何ものも、それ自らは存在しない。

弥栄しない。

必ず、その前なるものによって呼吸し、脈打ち、生命し、存在し、弥栄する。また、すべてのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。

地上人は、生前に生き、生前に向かって進み行く。また、地上人は、地上に生き、地上に向かって進み行く。

また、地上人は死後に生き、死後に向かって進み行く。しかし、そのすべては神の中での存在である。

それ自体のものはない。善でもなく、悪でもなく、ただ生まれつつあるのみ。

霊人に空間はない。

それは、内にある情動によって定まるが故である。また、その理によって一定せる方位も無い。

また時間も無くただ情動の変化があるのみである。地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙のすべてを創られたもののごとく考えるが、創造されたものではない。

創造されたものならば、永遠性はあり得ない。

宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、さらに常に神と共に永遠に生まれつつある。その用はたらきは愛と現われ、真と見ゆるも、愛というものはなく、また、真なるものも存在しない。

ただ大歓喜のみが脈打ち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。

存在は千変万化する形において、絶えず弥栄する。それは⦿であり、なるが故である。⦿は大歓喜の本体であり、はその用(はたらき)である。

それは、善でも無く悪でもない。真でも無く、偽でもない。美でもなく、醜でもない。

また愛でもなく、憎でもない。プラスでもなければマイナスでもない。

しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の因と愛の因とが結合し、醜の因と憎の因とが結合して、二義的には現われ、働き、存在として、またはたらく。

善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない。

それらのすべては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りて止まず、止まるところなく生長し、歓喜しつつあるがためである。

神が意図するということは、神が行為することである。

そして、さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜である。

神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、常に対応し、地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命する。

神の歓喜を内的に受け入れる霊人の群れは無数にあり、これを月の霊人という。

月の霊人の喜びが、地上人として地上に生まれて来る場合が多い。

日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神に融け入り、直接、地上人として生まれ出ることは、極めてまれである。

月の霊人は、神の歓喜をその智の中に受け入れる。故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。地上人は、この月の霊人の性をそのまま受け継いでいる場合が多い。

日の霊人は、神の歓喜をそのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いを持たない。月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜として受け入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる。ために二義的の歓喜となる。

故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。おのずから、別の世界を創りだすが故に、原則としては、互いに交通し得ないのである。

この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのである。

地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。それは、別の世界に住んでいるためであって、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている。

以上のごとくであるから、日と月、愛と真、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである。


第二帖(378帖)

天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。

何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである。

秩序、法則は神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。しかし、同一線上における横の交流は、可能である。

それはちょうど、地上における各民族がお互いに交流し、融和し得るのと同様である。すべて分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈打たない。

分類しては、生命の統一はなくなる。

そこに、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用はたらきが生じて来る。

一なるものは平面的には分離し得ない。二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。

分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。

・ については一なるも、⦿においては二となり、三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。

一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。

神霊無き地上人はなく、地上人と離れた神霊は、存在しない。

しかし、大歓喜にまします太神の ・は、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。それは立体をはるかに超えた超立体、無限立体的無の存在なるが故である。

霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である。

生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。すなわち、死後は生前の形式による。形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる。

こうして、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない。愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。

これら二つが相関連せるを外の真という。外の愛も外の真も共に生命する。

人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見ればわかるであろう。表面的なるものの動きも、内面的に関連性を持つ。

故に、外部的に曲げられたる働きの許されてあるを知る事が出来るであろう。許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。

浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽ではない。動かざる善は善ではなく、進展せぬ真は真ではない。

さらに善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜という。

歓喜は神であり、神は歓喜である。

一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える。

故に本質的には善悪の無いことが知られるであろう。

死後の世界に入った最初の状態は生存時とほとんど変化がない。先に霊人となっている親近者や知人と会し、共に生活することも出来る。

夫婦の場合は、生存時と同様な夫婦愛を再び繰り返す事が出来るのである。霊界は想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。

しかし、かくのごとき死後の最初の状態は長くは続かない。

何故ならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからである。

而して、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままに続いているから、外部的のもののみが強く打ち出される。

故に、外部の自分にふさわしい環境におかれるが、次の段階に入って行くと、外部的なものは漸次ぜんじ薄れて、内分の状態に入って行くのである。

内分と外分とは、互いに相反するが、霊人の本態は内分にあるから、この段階に入って始めて本来の自分に還るのである。

生存時においては、地上的な時、所、位に応じて語り、行為するがために、限られた範囲外には出られないが、内分の自分となれば、自由自在の状態におかれる。

生存時に偽りのなかった霊人は、この情態に入って始めて真の自分を発見し、天国的光明を開くのである。

偽りの生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。かくすることによって、生存時における、あらゆる行為が清算されるのである。

この状態に入ったならば、悪的なものはますます悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力ちからをますます発揮する。故に、同一の環境には住み得ないのである。

かくして、諸霊人は最後の状態に入り、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになる。

そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である。


第三帖(379帖)

愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。

地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。

地上人は常に霊界により弥栄する。弥栄は順序、法則、形式によって成る。

故に、順序を追わず、法則無く、形式無き所に弥栄無く、生まれ出で呼吸するものはあり得ない。

個の弥栄は、全体の弥栄である。

個がその個性を完全に弥栄すれば全体はますますその次を弥栄する。個と全体、愛と真との差がますます明らかになれば、その結合はますます強固となるのが神律である。

霊界と物質界は、かくのごとき関係におかれている。そこにこそ、大生命があり、大歓喜が生まれ、栄え行くのである。

さらに、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。

極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である。極内は極外に通じてを為す。

すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。

かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。これによって、新しくすべてが生まれ出でる。

太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、さらに新しく生まれ給うのである。

は絶えず繰り返され、さらに新しきすべては、神の中に歓喜として孕はらみ、生まれ出て、さらに大完成に向かって進み行く。

親によって子が生まれ、子が生まれることによって親が生まれ出でるのであることを知らねばならない。されば、その用においては千変万化である。

千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である。

愛は愛に属するすべてを愛とし、善をなさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属するすべてを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生じるのである。

悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。

共に神の御旨の中に真実として生きるのである。真実がますます単にしてますます充実し、円通する。

されば、⦿の中の ・ の中なる⦿の ・の中なる一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。

これが、大歓喜そのものであって、神は、この ・ に弥栄し給えるが故に、最外部の⦿の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである。

始めなき始めの ・ の真中の真空にいますが故に、終わりなき終わりの⦿の外の無にいまし、中間に位する力ちからの中にも生命し給うのである。

一物の中の ・ なるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない。

生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸と続き、様相として弥栄ゆるのである。神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。

歓喜に向かうことは親に向かうことであり、根元に通じることである。

世を捨て、外部的、肉体的諸慾を捨てた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。なぜならば、地上人における肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目を持っているからである。

地上人が、その時の社会的、物質的生活を離れて、霊的生活にのみ入るというのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。

天国を動かす力ちからは地獄であり、光明を輝かす力ちからは暗黒である。

地獄は天国あるが故であり、暗は光明あるが故である。

因は果にうつり、呼が吸となりゆく道程において、歓喜はさらに歓喜を生じる。その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。

呼が強くなれば吸も強くなり、吸が長くなれば呼もまた長くなる。故に地獄的なものも天国的なものも同様に神の呼吸に属し、神の脈打つ一面の現われであることを知らねばならない。

天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。

なぜならば、天国のいかなる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の調整が行われるからである。

この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜ではなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。

地獄は本来ないのである。

また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国でない。ただひたすらなる大歓喜が弥栄えるのみである。


第四帖(380帖)

同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え然しからざるものは、その内蔵するものの度合いに正比例して遠ざかる。同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。

生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるがまた死後の世界に通じる。

同気同一線上にいる霊人たちは、かって一度も会いせず語らざるも百年の友であり、兄弟姉妹であるごとくお互いに、そのすべてを知ることができる。

生前の世界における、かかる霊人が肉体人として生まれ出でた場合の多くは、同一の思想系を持つ。

ただし、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じて来る。

また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。

霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一としてない。

そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出て来るのである。

生前の霊人の場合は、自分自身の持つ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面を持つことは許されない。

一時的に満たすことはできても、長くは続かない。この情態の原理は、地上人にも、反影している。

生前の世界は、以上のごとくであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。

数百万霊人の集団もあれば、数百、数十で一つの社会をつくる団体もある。各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らに出来上がっている。

そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重いくえにも、内分の神に近い霊人の順に座を取り囲み運営されている。

もしそこに、一人の場所、位置、順序の違いがあっても、その集団は呼吸しない。

而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神かんながらの流れ、すなわち歓喜によって自ら定まっているのである。またこれら集団と集団との交流は、地上人のごとく自由ではない。

すべては⦿の ・ を中心として⦿の姿を形成しているのである。

・と⦿とを、生前の世界において分離することは極めて至難ではあるが、ある段階に進む時は一時的に分離が生じる。しかし、この場合も ・ は ・ であり、⦿は⦿である。

これが地上世界の行為に移りたる場合は不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度がさらに加わって、真偽混乱に及ぶものである。

悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるがごとく写し出されるのである。生前界では、悪を意志して悪を行うことは、御用の悪として自ら許されている。許されているから存在し、行為し現われているのである。

この場合の悪は、悪にあらずして⦿の⦿であることを知らねばならない。すなわち、道を乱すが故である。地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。

愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。その根底力をなすは歓喜である。故に、歓喜なきところに真実の愛はない。

歓喜の愛は、これを愛の善という。歓喜なき愛を、愛の悪というのである。

その歓喜の中に、また歓喜あり、真があり、真の真と顕われ、⦿となり、 ﹅・と集約され、その集約の ・ の中に⦿を生じ、さらになお ・ と弥栄る。

生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。

完成より大完成に向かい進む大歓喜の呼吸である。

されど、地上人においては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。そこに時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。

故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。そこに、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。

霊人においては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。一時的には仮面を被り得るが、それは長く続かず、自分自身絶え得ぬこととなる。

地上人といえども、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。

しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚すなければならない。

悪と偽に、同時に入ることは、一応の必要悪、必要偽として許される。なぜならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。

悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、すべてを殺す結果となるからである。

霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和あって、初めて力ちからし、歓喜し、弥栄するからである。

霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。

霊人も子を生むが、その子は歓喜である。歓喜を生むのである。


第五帖(381帖)

全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。

故に、宇宙そのものが、神と同じ性を持ち、同じ質を持ち、神そのものの現われの一部である。

過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存し、生前も死後の世界もまた神の中にある、地上人としては地上人の中に、霊界人にあっては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。

故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成り立っている。

部分部分が雑多なるゆえに、全体は存在し、力ちからし、弥栄し、変化する。故に歓喜が生じる。

本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。

影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。

悪はすべてを自みずからつくり得、生み得るものと信じている。善はすべてが神から流れ来たり、自らは何ものをもつくり得ぬものと信じている。

故に、悪には本来の力ちからは無く、影にすぎない。

善は無限の力ちからを受けるが故に、ますます弥栄する。

生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。

生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。生前の行為が生後審判され、酬むくいられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。

そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。

悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるものではない。何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。

地上人的に制限されたる感覚の範囲においては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来たす場合もあるが、それはいずれもが弥栄である。これを死後の生活にうつされた場合もまた同様である。

要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄は無いのである。

この一貫して弥栄し、大歓喜より大大歓喜に、さらに超大歓喜に向かって弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。

しかし、天国や極楽があると思念することは、すでに無き地獄を自ら作り出し、生み出す因もとである。

本来無きものを作り出し、一を二に分ける。だが、分けることによって力ちからを生み弥栄する。

地獄無き所に天国は無い。天国を思念するところに地獄を生じるのである。

善を思念するが故に、悪を生み出すのである。

一あり二と分け、離れてまた、三と栄えるが故に歓喜が生まれる。すなわち、一は二にして、二は三である。

生前であり、生後であり、死後であり、なおそれらのすべては⦿である。

⦿はであり⦿であり、 ﹅ と集約される。故に、これらのすべては無にして有である。

人の生後、すなわち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄するところに尽きざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、さらに三の段階へと弥栄浄化する。

浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。故に、神の中に神としてすべてが弥栄ゆるのである。

ことごとくの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。

歓喜に審判なく、神に戒律は無い。

戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。このことは自らを切断することである。

裁きはあり得ず、戒律はつくり得ず、すべてはこれ湧き出でる歓喜のみの世界となることを知らなければならない。

行為は結果である。思念は原因である。原因は結果となり、結果はただ、結果のみとして終わらず、新しい原因を生む。

生前の霊人は、生後の地上人を生む。地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、さらに原因となって生前の霊人を生む。

⦿はとなって廻り、極まるところなくして弥栄る。

以上述べたところによって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであるう。されば、常に歓喜に向かってのみ進むのである。

これはただ、霊人や地上人のみではない。あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。

故に地上世界の悉くは生前世界にあり、かつ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一である。

生前の呼吸はそのまま生後、死後に通じる。

地上におけるすべては、そのままにして生前なるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活がある。

地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像のごとく感覚されるものである。しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ。

時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。


第六帖(382帖)

霊界人は、その向いている方向が北である。しかし、地上人の言う北ではなく、中心という意味である。

中心は、歓喜の中の歓喜である。

それを基として前後、左右、上下その他に、無限立体方向が定まっているのである。

霊界人は地上人が見て、いずれの方向に向かっていようと、その向かっている方向が中心であることを理解しなければならない。

故に霊人たちは常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。

それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。

要するに、それは霊人たちの呼吸と脈搏の根元をなすものである。

地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向に向かっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向かって座し、向かって進んでいる。

上下、左右、前後に祈り重なっていると見えても、それは決して、地上人のあり方のごとく、霊人たちには障害とならない。

各々が独立していて、他からの障害を受けない。しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。

各自の眼前にそれ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。

それは、霊人たちが目で見るものではなく、額ひたいで見、額で感じ、受け入れるのであるが、その額は、身体全体を集約した額である。

地上人においても、その内的真実のものは額でのみ見得るものである。

映像として真実であるが、第一義的真理ではない。故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのではない。内質においては同一であるが、現われ方や位置においては相違する。

故に、霊界人が現実界を理解するのに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。

霊人の中では太陽を最も暗きものとして感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長しているという。地上人には理解するに困難なことが多い。

要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、かつ受け入れて生活しているのであるが、そこにも、それ相応な歓喜があり、真実があり、生活がある。

歓喜の受け入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することにおいては同様である。

歓喜すればこそ、かの霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。

この霊人たちを邪霊と呼び、邪気といい、かかる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、かつ感じ、考えるのである。

しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。

霊界においては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。なぜならば、思念による思念の世界につながる故である。

現実界に見ては折り重なって、この霊人たちが生活するとも、全然その感覚外におかれるために、その対象とはならない。

地上人においても原則としては同様であるが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交する。交叉混交はしても、同一方向には向かっていない。

そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じて来るのである。


第七帖(383帖)

地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には霊界の順序があり、法則がある。

霊界が原因の世界であるからといって、その秩序、法則をそのまま地上には移し得ず、結果し得ないのである。

また地上の約束を、そのまま霊界では行い得ない。

しかし、これらのすべては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。

その秩序、法則、統一は一応完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。

故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈搏し、歓喜するのである。

これが生命の本体であって、限られた智によって、この動きを見る時は、悪を許し、善の生長弥栄を殺すがごとくに感じる場合もある。

しかし、これこそ善を生かして、さらに活力を与え、悪を浄化して必用の悪とし、必然悪として生かすのである。

生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知る得るのである。

本来悪は無く、暗は無く、地獄無きことを徹底的に知らねばならない。これは、生前、生後、死後の区別なく、すべてに通じる歓喜である。

一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。さらに一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。

地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。

悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ないごとく、地上人に至っては極めて稀まれであることを知らなくてはならない。

悪を悪なりと定めてしまって、悪はすべて祖先より、あるいは原因の世界より伝えられたる一つの因果であるという平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べたところで明白となり、己おのれを愛するは、まず悪の第一歩なりと考える。

その考えが悪的であることを知らねばならぬ。

来たるべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む想念はなくなる。

しかし、それが最高の理想郷ではない。さらに弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなけばならぬ。


第八帖(384帖)

生前の世界に、霊人が生活している。

山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなす・が歓喜していた、その・が生後、地上世界に移されて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、その結果が、死後の世界に続き、死後の世界の様相は・の原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、その・を幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的・に向かって弥栄する面と、外的、地上的に進む・と、その交叉融和することによってさらに生み出され弥栄する・と、各々が各々の立場において・(進み)・(呼吸し)・(脈打ち)・(生命)していると同時に全体的にも・(生命し)・(歓喜し)・(弥栄)している。而して、その現われとしては、・(和)せば ・(和)するほど相離れ、遠ざかりつつ ・(生長)する。

また・(生命)の・(大歓喜)として湧き出でいる。

故に地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、霊人により育てられると同時に、人々より生み、人々により育てられ、歓喜されるのである。

かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入るまでは、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。

故に、新天新地の来るまで、真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生まれ出づる自己を知り得ない。

この新天新地は幾度となく繰り返されているが、いずれも・の形におけるがごとく同一形式のものではあるが、同一のものではない。

より小なるものより、より大なるものが生まれ、より古きものより、より新しきものが生まれ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、さらには一つとなることを理解しない。

月より地球が生まれ、地球より太陽が生まれるということを理解するのに苦しむのである。

最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。

これは外部的なる智によらず、内奥の神智に目覚めることによってのみ知り得る。新天新地新人はかくして生まれ、呼吸し、弥栄える。

しかし、新人と生まれ、新天新地に住むとも、その以前の自分のすべては失われない。ただその位置を転換されるのみである。

地上人が死後、物質的に濃厚なる部分を脱ぎ捨てるが、その根本的なものは何一つとして失われず生活するのである。その状態よりもなお一層、そのままであって何等の変化もないと思えるほどである。

蛆虫が蝶になるごとく弥栄えるものであって、それは大いなる喜びである。何故ならば、大歓喜なる大神の中において、大神のその質と性とを受け継ぎ呼吸しているからである。

すべてのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する。

歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ない。故に、歓喜より離れたる信仰はなく、真理はなく、生命はない。

生前の霊人が地上人として生まれて来るのも死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。

歓喜は行為となる。

行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。ただ考えたり意志するのみでは萌え出ない。生命しない。

ただ意志するだけで行為しない事はまことに意志することではない。霊界においては意志することは直ちに行為となるのである。

地上人にあっては物質によって物質の中に、その意思を行為することによって初めて歓喜となり、形体を為し弥栄えるのである。

生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、その中間の三段階を加えて七つの段階にまず区別され、その段階において、その度の厚薄によって幾区画にも区別され、霊人の各々は自らの歓喜にふさわしい所に集まり、自ら一つの社会を形成する。

自分にふさわしくない環境に住むことは許されない。否、苦しくて住み得ないのである。

もしその苦に耐え得んとすれば、その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。

例えば、愛の歓喜に住む霊人はその愛の内容いかんによって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。

故に、生前の世界では自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉ことごとくが最もよく自分に似ており、自分と調和する。

山も川も家も田畑も、そこに住み霊人たちも、動物も植物も鉱物も、すべて自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈搏の中にあり、それらのすべてが、大きな自分自身と映像する場合が多い。

自分は他であり、他は自分と感覚する。

故にその性質は生後に基づき、地上人もその周囲を自分化しようとする意志を持っているのである。

しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。

死後の世界もまた生前と同様であるが、一度物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。だが、いずれにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ち切ることは出来ない。

物質は物質的には永遠性を持たず、霊は永遠性を持つが、霊的角度から見れば永遠性は持たない。しかし、物質面より見れば永遠性を持つものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである。

而して、永遠性を持つ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内臓している。

無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。


第九帖(385帖)

霊、力、体の三つがより良く調和するところに真実が生まれ生命する、これは根本からの存在であり用はたらきであるが、動き弥栄する道程にいて、復霊、復力、復体の動きをなす。

霊の立場よりすれば、霊波善であって、体は悪、体の立場よりすれば、体は善であって、霊は悪である、悪あればこそ善が善として救われ弥栄する。

善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。

悪は悪善としての神の中に、善は善悪として神の中に弥栄る、力がそこに現われ、呼吸し、脈打って生命する、故に生前の霊人は、生前界のみにては善なく、生命なく、地上人との交流によって始めて善悪として力を生じ、生命してゆく。

地上人は地上物質界のみの立場では悪なく、生命なく、生前界との交流によって始めて悪善としての力に生き、弥栄して行く。

かくして、なお地上人は死後の世界に通じなければならぬ。

死後の世界との関連により、複数的悪善に置かれる、善悪善の立場に置かれる場合が多いために、地上における司宰神しさいしんとしての力を自ら与えられるのである。

善悪の生かされ、御用の悪として許されているのは、かかる理由によるものである。

善のみにては力として進展せず、無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。

何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。

悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下にすべてをはめんとなす限られた科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。

悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。

この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。地上人の持つ想念の本は霊人そのもであり、霊人のもつ想念の本は大歓喜である。

故に、地上人は霊人によってすべての行為の本をなし、霊人は神により、神は大歓喜によってすべての行為の本とする。故に地上人そのもののみの行為なるものはない。

いずれも、神よりの内流による歓喜の現われであることをしらねばならぬ。歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属する。

霊に属するものは常に上位に位し体に属するものは、常に下位に属するのであるが、体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。しかし、差のない立場において差をつくり出さねば、力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ない。

すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。

動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生まれてくる。

霊にのみ傾いてもならぬが、強く動かなければならない。体のみに傾いてもならぬが、強く力しなければならない。

悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。

常に動き栄えゆく、大和の〇を中心とする上下、左右、前後に円を描き、中心を・とする立体的動きの中に呼吸しなければならない。

それが正しき惟神かんながらの歓喜である。

惟神の歓喜はすべてのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄する。故に永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである。