今は「大峠」のどの地点か?
今回は、「日月神示」の中でも要と言える「岩戸開き」についての解説になります。
日月神示の中で、「大峠」の時期を特定する議論のうち、基本となるのが「岩戸の巻・第十六帖」の「子(ね)の歳を真中にして前後十年が正念場、世の立て替えは「水」と「火」とだぞ、ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ」という文章です。
「子の年」は干支が一巡する12年に一度あるため、カレンダーを見れば特定するのは難しくありません。
直近の子年は「2020年」であり、同年には「コロナ・パンデミック」が始まりました。
コロナに伴う社会的混乱が治らぬ2022年にはロシアによる「ウクライナ進攻」が始まり、世界でエネルギー要因のインフレが加速していきました。
そして2023年にはイスラエルのガザ進攻、中東諸国に対する挑発行為による中東危機の再燃、それをアメリカが無条件支援することによる国際情勢の混乱、経済的混迷が起きています。
そして我が国に漂う社会的停滞感とインフレ不況、誰もが感じる「世も末感」はまさに「大峠」と表現するのに相応しいでしょう。
現在が大峠の最中だとすると、今はどの地点にいてどれほど続き、いつ終わるのか、それが一番気になるところです。
「子の年を真中にして、前後十年が正念場」ということは、単純に読めば「正念場」は2030年まで、前は2010年から始まっていることになります。
つまり大峠とは20年越しの大プロジェクトであり、「日月神示」が戦前にもたらされたことを考えれば、さらに長いスパンで起きていることがわかります。
2010年から大峠の「正念場」が始まっているとして、思い浮かぶ社会的混乱は2011年3月に起きた「東日本大震災」でしょう。
ただでさえ津波による甚大な被害がありながら、原発事故なども併発し、普及し始めたSNSの利用によりデマやフェイクニュースが流布され、国中が騒然となった光景は忘れることができません。
この後に「復興増税」が始まり、日本人の経済的困窮はさらに加速していき、パンデミックも相まって我が国はどんどん歪な世相になっていきました。
これだけ暗い話が続くこの15年は、やはり直感的に「試練」を感じさせるものです。
では、今が「大峠・正念場の20年」の最中だとして、「正念場」の尽きる2030年に、ピッタリ終わると考えていいのでしょうか。
「日の出の巻・第二帖」には「九歳は神界の紀(はじめ)の年ぞ、神始めの年と申せよ、一二三、三四五、五六七ぞ、五の歳は子の歳だぞよ」とあります。
「九歳」を「九年」と読み替えれば、「子の年・2020年」から9年目である2029年、大峠19年目が「神界の紀元・元年」になります。
「碧玉の巻・第十九帖」では「フトマニとは二十の珠(たま)であり、十九は常立(とこたち)であるぞ、根本の宮は、二十年毎に新しく致さねばならん、十九年過ぎて二十年目であるぞ、地上的考え方で二十年を一廻りと考えているが、十九年で一廻りするのであるぞ」と書かれています。
「フトマニ」とは、日本神話では伊弉諾命と伊奘冉命が国産みの際、「どうしたら良い子(神)が産まれるのか」を大神に問い、占卜の一種である甲骨占いを行ったという故事に由来します。
ここでは、「神の法則」として「フトマニ」があるように語られており、「20年」というのは太古日本では「聖数」であり、その名残は伊勢神宮の「式年遷宮」に見ることもできます。
だから大峠が「二十年」という節目を用いられる所以とも言えるのですが、この文節で重要なのは「十九年」で一巡りであり、「二十年目」を「2年目」と数えているということです。
ゆえに、私たちからみて「大峠19年目」の2029年で一切りとなり、その年が「岩戸開き=神界の紀元」となるということではないでしょうか。
ただ、それでは結論だけを述べたに過ぎないので、そもそも「大峠」とは何のために起こるか、どういう経路を辿って起こるのか、そこも紐解いていきたいと思います。
「三四五」「五六七」の仕組みとは
上記「日の出の巻・第二帖」では「一二三、三四五、五六七ぞ、五の歳は子の歳だぞよ」と述べられています。
「五の歳・子年」が「神界紀元・九の歳」とすれば、2020年子年を五歳として4年後、2024年には岩戸が開けている算段になります。
しかし2025年現在、世界を巡る情勢は悪化しており、我が国はますますその煽りを受けて混迷しています。
ゆえに、「五の歳」が2020年としても「九」という点で見れば、違う軸の代数であると考えられます。
どうもこの「五」というのは「一二三、三四五、五六七」の「五」に掛かっているように思えます。
「夜明けの巻・第十二帖」には、「申(さる)酉(とり)過ぎて戌(いぬ)の年、子(ね)の年、目出度けれ」とあります。
「日の出の巻・第二十帖」に「十年先は五六七(みろく)の世だぞ」とあるため、「子の年を真中」にすれば、10年後は戌年で「神界紀2年」に当たり、既に「ミロクの世」になっているはずで、ゆえに2032年子年に「めでたい世」となっているのは辻褄が合います。
だから日の出の巻に言う「子の年」とは2032年の子年であり、「ミロクの世」になる前の2020年・子年を指していないのです。
ではここで、神示に頻出する「一二三(ひふみ)」「三四五(みよいづ)」「五六七(みろく)」が意味するのは何でしょうか。
この数字の並びが不思議なのは、「一二三」の後に「四五六」が来るわけではないことです。
センテンスの最後と最初の数字が重複している上に、最終段階を「八九十の世」とすれば、正しく神の経綸の完成に相応しい並びになるはずです。
冷静に考えて、「五六七」を「みろく」と呼ぶのは些か強引な気がします。
これは仏教における「弥勒菩薩」の降臨が56億7千万年後に成就し、それにより仏教的世界は完成する、という世界観へのオマージュでしょう。
要は、「五六七」と「56億7千万」をかけて「ミロク」とルビをつけて読ませているわけです。
ただ、普通に読めば「いむな」ですし、「みろく」にしたいなら「六六六」にすれば良いはずです。
「碧玉の巻・第十五帖には、こうあります。
「五六七のミロクの代から、六六六のミロクの世となるぞ、六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動き無いぞ、六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きが無いからそのままでは弥栄せんのじゃ」
つまり「五六七=六六六(ミロク)」ですが、おそらく「七」以降の広がりを持たせるために「五六七」である必要があるのだと思います。
また、この「五六七」が初めから「ミロクの世」のメタファーとして用意された数字であるとしたら、どうでしょうか。
「天つ巻・第十帖」にはこうあります。
「一二三の裏に〇一二、三四五の裏に二三四、五六七の裏に四五六の御用あるぞ、五六七済んだら七八九ぞ、七八九の裏には六七八あるぞ、八九十の御用もあるぞ」
ここで「七八九」「八九十」とは語られていますが、これらの数字はここ以外登場せず、「世」を示す文脈とは思えません。
ここでの主題は「御用」に関してであり、「〇一二」の御用から「十」まである、というように読めます。
つまり、時代区分としては「五六七」が最終段階であり、そこが世界の「修理固成(作り固め)」の到達点なので、それ以降はずっと「ミロクの世=弥栄の世」なのだと思います。
だから「五六七」までの数字に対する並びは、「一二三」「三四五」という時代区分を指すものであり、「五六七」をもって三段階の最終行程を指すのではないでしょうか。
だから「七八九の世」という概念は、神示には存在しないのだと思います。
「一二三」という時代区分は「五六七(みろく)」の世に至るまでの「闇の時代」であり、「三四五(みよいづ=御代出づ)」の過程を経て「ミロクの世」になるとしたら、やはり全三段としてこの並びを考えるのが妥当です。
そして、「三四五」の「五」は子年(=2032年)を含むので、「五六七(みろく)の世」は2032年以降の万劫末代まで弥栄える時代を指すのでしょう。
ならば、2025年現在はどの段階にあるのでしょうか。
まだまだ世相が悪化しかねない趨勢を感じる昨今ですが、「富士の巻・第九帖」にはこうあります。
「今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ、一度はそこまで下がるのぞ、今一苦労あるとくどく申してある事は底まで落ちる事ぞ、地獄の三段目まで落ちたらもう人の住めん所だから、悪魔と神ばかりの世になるのぞ」
「富士の巻」が岡本天明氏にもたらされたのは戦時中の昭和19年ですから、混迷を極めた敗戦間際は「地獄の三段目」だったかもしれません。
ただ、1945年頃の時点で「地獄の三段目」とするなら、その後の高度経済成長と不動産バブル崩壊を経ても、未だに世の中が「神と獣」に分かれていないのを見ると、少なくとも三段目は訪れていないように思えます。
むしろ、いよいよ「大峠」だという近年になって、日本人の精神状態がどんどん様変わりし、闇に沈んでいっていることを考えれば、まさに今「地獄の三段目」を迎えつつあるとも言えます。
よく考えれば、2020年の「コロナ・パンデミック」から世界の闇が如実に表面化したように感じられ、2020年が「三」の始めだったとすれば、2025年現在は「地獄の三段目」のちょうど中間地点あたりにあるのではないでしょうか。
ゆえに現在は「三」にあり、「一二三(ひふみ)」としては最終行程であり、「三四五(みよいづ)」としては初期行程にあると考えられるかもしれません。
だから2025年は「子の年」から続く、10年の折り返し地点であって、「五」がミロクの世(2032年)にあるなら、現地点を「三」とすれば、2029年までの4年をかけて「三」と「四」を駆け抜け、最終的に「五」に到達した時点で登り切ったことになるはずです。
「富士」と胸つき八丁
「下つ巻・第三十四帖」には、こう書かれています。
「戦済んでも、すぐに良き世とはならんぞ、それからが大切ぞ、胸突き八丁はそれからぞ、富士に登るのも雲の上からが苦しいであろうがな、戦は雲のかかっている所ぞ、頂上までの正味の所はそれからぞ、一、二、三年が正念場ぞ、三四五(みよいづ)の仕組みと申してあろうがな 」
この「一、二、三年」というのは、「三四五(みよいづ)の世」に至るまでの3年間である可能性があり、「2028年中」で暗闇時代が終わるとしたら、それまでの3年は過酷になることを暗喩しているのかもしれません。
「戦済んでも」というのは「第二次世界大戦」であり、「三千世界の大洗濯」というスケールで見れば、先の大戦も準備段階の一つに過ぎなかったということでしょうか。
だとしたら、「百年も続けて嘘は言わんぞ」というのも、大峠自体が100年単位の大事業である可能性が非常に高いと思います。
とりあえず話を進めると、戦後数十年をかけて「胸つき八丁」の位置まで私たちが「登山」をしたなら、「三四五(みよいづ)」は雲のかかる八丁(=八合目)あたりから始まることになります。
戦争終結時点で、我が国が何合目だったのか不明ですが、今は行程としては雲のかかる所にいるということです。
そこで、私たちが登るこの山は何なのかというと、何十年かけても登りきれないような日本の高い山は、「富士山」以外に思いつきません。
「木花咲耶姫命」が主祭神とされる「富士」は、登りきる時には「苦(九)の花」が咲き、かの女神様は私たちの登頂を祝福なさるのではないでしょうか。
このように、神示の中に出てくる数字は文脈によって全く軸となる変数が違うのです。
「一二三(ひふみ)」「三四五(みよいづ)」「五六七(みろく)」の並びを段階的変数とするなら、「一合」から「十合目」までの十進数を元にした変数もあるわけです。
そこで、文中によく出てくる「月」という単位も、「年」「歳」が比喩的に用いられたことを考えると、そのまま「月次」という意味に当てはめるべきではないかもしれません。
神示の中で「◯月」という表現はよくありますが、なぜか「秋」以降の「十一月」「十二月」という記述は一切出てきません。
つまり、「一月」から「十月」までの「月」に係る数字が肝なのであって、あくまで比喩的な数字と考えることができます。
その「月」というのは月と地(くに)を司る国常立尊(素戔嗚命=伊弉諾命)と関係し、例えば「八月」は伊弉諾命が岩戸を開く時という解釈もできるのです。
「碧玉の巻・第五帖」には「七は成り、八は開くと申してあろうが、八の隅(くま)から開きかけるのであるぞ、開けると〇と九と十との三が出て来る、これを宮(みや)と申すのぞ」 とあり、やはり「月(伊弉諾命)が開く」という読み方ができます。
だとしたら、「十月」から先が存在しない理由も明らかであり、十月には既に五六七(みろく)の世となっているので、十一月以降はあっても意味をなさないのだと思います。
ただし、「一二三」から「三四五」までの並びに、「一月」から「十月」までの並びを対応させることはできるかもしれません。
以下、それを一覧にしてみます。
・一…1、2月
・二…3、4月
・三…5、6月
・四…7、8月
・五…9、10月
「六」以降がないのは、「五」の段階で既に「ミロクの世」となっているからであり、神示に「11月」以降がないことに対応しています。
「地つ巻・第二十四帖」には「十月とは「−」と「|」との組んだ月ぞ」とあり、やはり神示解釈の中では「◯月」というのは、高い抽象度で捉える必要があるのではないでしょうか。
転換点は「2029年酉年」
神示の中でたびたび出てくる「秋」という表現は、「九月、十月」は季節としての秋を示していることに対応しています。
神示の重要タームである「鳴門の仕組み」とは、「五六七」の「七」が「成る」ことであり、「七が成る」と「十(ト)」が開くのです。
非常に日月神様っぽい言葉の使い方だと思いますが、「鳴門の仕組み」が「富士(不二)の仕組み」と同様、「岩戸開き」を指し示す概念であるのは言うまでもありません。
「天つ巻・第三十帖」には、「富士とは火の仕組み、渦海(なると)とは水の仕組みぞ」とあり、「火」とは「日(太陽)」に、「水」は「月」に対応しますが、また「火」を魂、「水」を肉体とすれば、神示の最重要テーマである、私たち人間の「身魂磨き」が「地の岩戸開き」のキーワードになってきます。
前述したように、「富士」は十合目まで登っていく「一二三(ひふみ)」から「三四五(みよいづ)」までの段階に対応しているので、これをして「富士の仕組み」と言って問題ないと思います。
「天つ巻」や「夜明けの巻」などに出てくる「鳥立つ」「十理(とり)立つ」という表現は、やはり「2029年・酉年」にかかっているのではないでしょうか。
神示の中に頻出している「辛酉」というワードが、時期的な予言を指しているとよく解釈されます。
この件に関して、干支の60周期では6番目、7つ目が「辛酉」となっていることに関係がある気もします。
「六」からミロクの世となる「七」にかかる時、その境目が「鳥立つ」辛酉になるからです。
また、富士の岩戸が開かれる時、「苦(九)の花が咲く」ことに、「辛かった鳥(酉)が飛び立つ」という意味にかけている可能性もあり、これも象徴的な意味だとしたら、単に「酉年」と考えても矛盾しません。
あるいは、駄洒落好きの日月神様ですから、「叶う+戸(岩戸)」にかけているのかもしれません。
「岩戸」という語彙も、「岩=言(いわ)」が「戸(十)を開く」と解釈でき、「神は言波(ことば)ぞ(地つ巻・第三十四帖)」とあることから、「神の道」に落ちる闇を照らすには、「言葉」というものがキーポイントになってくるように思います。
それが「言霊」であり、口だけではなく「事(コト)を起こすこと(行動)」を意味するのかもしれません。
「身・口・意」が大事とは言われますが、この三つの「コト」をして「ミコト(命)=三コト)となると神示では語られています。
不完全だった「岩戸開き」
神示をよく読んでみると、文節間で時系列が錯綜しており、戦時中の天明氏を代表とする「ひかり教会」「天日月神奉賛会」に対する行動指針や、この先数十年後の「予言」が同じパラグラフの中に収まっているので、一見すると支離滅裂な印象を受けます。
この文脈が「日月神示」を難解かつ、ミスリードの多いものにした原因だと思います。
特に文中の要である「岩戸開き」に関しては、「開いた」「開く」と過去形と未来形が同時に並ぶので、混乱する要因となっています。
「雨の巻・第十帖」には、こうあります。
「天の岩戸開いて、地の岩戸開きにかかりているのだぞ、我一力では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること、忘れるでないぞ、霊肉共に開くのであるから、実地の大峠の愈々となったら、もう堪忍してくれと何どんな臣民も申すぞ」
「雨の巻」が書かれたのは昭和20年10月から12月にかけてです。
この文面を読む限り、昭和20年には「天の岩戸開き」が完了していたことになります。
そして、未だ行われていないのは「地の岩戸開き」であり、それが「実地の大峠」であるとされます。
神示の降ろされた終戦間際を中心に考えると、直近の「子年」は1948年になります。
その前10年と鑑みれば、1939年に太平洋戦争が始まり、「終戦」一年前の1944年には、麻賀多神社で天明氏に神示が降ろされています。
そして「ひかり教会」設立が1947年ですから、やはり「地の岩戸開き」が近い将来にあるのを見越して、天明氏らがご活動されていたことが確認できます。
神示を直接受けて解読した天明氏が、その時期を曖昧に捉えていたはずがないと思います。
当時、天明氏らは「子の年を真中にして十年」後の1958年頃には、岩戸が開かれると考えておられたのではないでしょうか。
しかし、昭和33年(1953年)から34年(1954年)にかけて降ろされた「月光の巻」では「岩戸」という用語は一切出てきません。
それどころか、「天日月神」様からは悩める天明翁に寄り添い、後進の人々に人生訓を垂れる「親神」としての一面が色濃く出ています。
対して、1961年(昭和36年)に書かれた「五十黙示録」八巻には、かなり詳細な「岩戸開き」のネタバレがなされています。
「五葉の巻」には、「世が迫って岩戸が開いた(第五帖)」「 岩戸と申しても天の岩戸もあるぞ(第十一帖)」「天も地も大岩戸開き、人民の岩戸開きに最も都合の良い時ぞ(第十二帖)」と、未だ「地の岩戸が開かれていない」ことへの言及があります。
同「五葉の巻・第十五帖」には「岩戸が開けると言う事は、半分の所は天界となる事じゃ、天界の半分は地となる事じゃ」とあります。
つまり、岩戸とは「天と地」の間を塞ぐものであり、神と人を繋ぐ「道」が岩で阻まれているというより、天界と地上界の間に張り巡らされたフィルターのような印象を持ちます。
その「片方」が取り除かれた状態が「天の岩戸開き」であり、どうもこの幕は天界側と地上界側の二重構造なのではないでしょうか。
そして先に「天界側の岩戸」は開かれ、そのために神示では「開かれた」とされますが、厳密には「地上側の岩戸」は閉じられたままなので、岩戸開きは正しく実行されていません。
神示のニュアンスでは、「岩戸を開くことが(地上では)可能になった」という文脈であり、「岩戸が開く」とは似て非なる、ニアリーイコールの意味なのだと思います。
ゆえに、少なくとも1945年の時点では「天の岩戸開き」は成就しており、2025年今なお「地の岩戸開き」は達成されていないと考えられます。
神示の「地震の巻」は、天明氏が「御身(ミミ)」に入れた霊界の知識が書き留められています。
そこでの注釈を加えるならば、神界で起きたことは必ず、地上世界に反映するという法則があるそうです。
しかし、天界に「時間」という概念はないため、地上世界の時系列とは事象の順序が変わる事もあると言われています。
もしかすると、神界や幽界ではすでに「天の岩戸」が開かれたことで伊弉諾命と伊奘冉命が御手を取り合い、「天日月大神」として君臨する治世が始まっているのかもしれません。
しかし、地上では「地の岩戸」はまだ閉じたままなので、地上の時系列では国常立尊(伊弉諾命)が未だ地上で権能が発揮できない状態であり、ゆえに地上界と天界の開通はまだ実現していないのではないでしょうか。
それゆえ、天界では80年前に「岩戸開き」の準備は出来ているし、開くのはいつでも可能なのだけれど、地上での岩戸開きが行われない以上は「片方の岩戸だけが開いている」状態なのだと思います。
ただし岩戸は二重扉なので、片方のシャッターが閉じているだけでは障壁に阻まれ、双方共に進行不可能な状態なのかもしれません。
この辺の真相は、神々の世界を直感的に知り得ない人間には、到底思い知ることはできないでしょう。
しかし「岩戸が半分開いて、半分閉じている」と考えれば、「五十黙示録」の矛盾的な説明に辻褄が合うのです。
では、1945年頃には既に「天の岩戸」は開かれたのに、なぜ80年以上「地の岩戸」は開かれることがなかったのでしょうか?
1993年の岩戸開きは「見送られた」
ここで「青葉の巻・第五帖」にある有名な一節、「天明96歳7ヶ月、開く」という文言が重要になってきます。
順当に神示を読み進めていけば、1897年生まれの岡本天明氏がご存命なら「96歳7ヶ月」になる1993年6月には「地の岩戸」が開かれ、晴れて「ミロクの世」となっている算段になります。
直近の「1984年・子の年」から前後10年と考えれば、1993年は九年目の神界紀元に相応しく「酉年」であり、時候として申し分ない条件です。
1989年には「不動産バブル」が弾けており、その後「失われた30年」をもたらす日本経済の長期低迷の原因となりました。
神示にある「金で治めて金で潰す(黄金の巻・第五十九帖)」とあるように、バブル崩壊で拝金主義が潰れ、そのまま「お金中心ではない世の中」になってもおかしくありません。
しかし、そうはならず1995年1月には「阪神淡路大震災」があり、同時に「オウム真理教」の摘発などもあり、世は騒然となりました。
1993年に起こる予定だった「地の岩戸開き」が見送られたことに関して、どうも「月光の巻」が降ろされた1958年頃には、天明氏には既にそれが伝わっていたのではないかと思う節があります。
天明氏は晩年、「僕が早死にしたら」と妻である三典氏に語っていたそうで、まるで死期を悟っていたかのようです。
戦後とは言え「65歳」でお亡くなりになるのも、些か早すぎる気もします。
もし、タイムラインとして「96歳7ヵ月」に岩戸開きを見ることが叶うなら、天日月神様も弥栄の世に貢献した天明翁を労い、長寿を叶えられたのではないでしょうか。
しかし、1961年の「五十黙示録」を最後に、65歳という若さで天明氏は天寿を全うされています。
こう言うと失礼に当たるかもしれませんが、やはり晩年には百歳近くまでご存命をしても「弥栄の世を見ることは叶わない」と感じられておられたのではないでしょうか。
しかし、干支の「子年」は12年に一巡しますし、何なら1972年の子年を真中に「1982年頃」に岩戸開きが行われてもおかしくありませんし、なぜ「1993年」でなければならなかったのでしょうか。
しかも、「1984年」の次なる子年の有力候補が「2020年」と、なぜ35年以上も猶予が開くことになったのでしょうか。
「扶桑の巻・第六帖」には、以下の文章があります。
「三年と半年、半年と三年であるぞ、日は三日と半日、半日と三日、次に五年と五年じゃ、五日と五日じゃ、その間は暗闇(くらやみ)時代、火を灯しても暗いのであるぞ」
これも神示マニアの間では、議論の的となる部分です。
この「暗闇時代」の「七年七日」と「十年十日」の期間を合わせると「17年17日」になります。
冒頭でも扱ったように、「大峠」は「子年を真中にして10年」ということは合計すると「20年間」です。
現大峠の「正念場」は2020年の10年前、2010年から始まっている計算になるので、「正念場始めの年」から「暗闇時代」の17年17日を差し引くと、旧大峠「岩戸開き」の推定年である「天明96歳7ヶ月」の1993年と符号します。
「地の岩戸開き」の本来の予定である1993年の「真中の子年」は1984年であり、「正念場始めの年」は1974年、その17年前は最初の「地の岩戸開き」推定年の1957年酉年に当たるので、時期が一致します。
つまり、次回の「正念場始めの年」は1957年酉年から17年後、1974年となるために「1972年子年」では1958年ごろにあったと思われる「地の岩戸開き」から「暗闇時代」の17年を差し挟む余地がありません。
要するに、「大峠前10年」から「暗闇時代17年」を遡ると、前「岩戸開き」予定時の「正念場19年目(九歳)酉年)となり、間に干支を3回挟むことになるため、ちょうど「36年周期」のように見えるのです。
従って、2020年子年を境に後半戦に入った2025年から、あと「3年」の暗黒時代を経て、2029年には晴れて「地の岩戸」が開かれるはずです。
その時、天と地の二重扉が解放され「天地の岩戸開き」が成就することで「三四五(みよいづ=御代出づ)」となり、「五六七(みろく)」の時代を迎える、私はそう結論づけたいと思います。
最後に、岡本天明氏を偲んで
この記事のまとめとして、「ミロクの世」到来と岩戸開きを待たずしてご逝去なされた、岡本天明翁の「天命」について思いを馳せたいと思います。
天明氏は約17年間、不定期に神示を降ろされることで心身に負担をかけながら、長い時間と労力をかけて神示の解読と普及、ご活動に尽力されました。
私たちがこうしてインターネットで「日月神示」の全文を読み、互いに意見を交換し合えるのは、一重に天明氏とその最大の功労者であられる、三典夫人のご献身の賜物です。
戦後何十年かの間に何回か巻き起こった、「日月神示ブーム」の折、2013年に「神示」がパブリックドメインに変更されたことで、今私たちは氏の功績を辿ることができます。
それは天明氏が「没後50年」という時間を残されたことで、私たちは三十八巻の膨大なテキストを共有することが可能になっています。
65歳と、比較的に早く亡くなられた翁が自らの天寿を犠牲にして、より多くの人々に「日月神示」を知ってもらおうとされたのだとしたら、最後まで「天命」を全うされたように思えてなりません。
人々が神示を読み解き、その啓示を「肚」に入れ「ミロクの世」の礎とするよう、それを促すお役目と「天命」に対する責任感があり、そのようなご選択をなされたのだとしたら。
「日月神示は創作である」というご批判もありますが、私は例えこれらの文書群が「創作」でも問題ないと思います。
かつて、戦争という痛ましい現実に直面し、行き場のない義憤に堪えながら、懸命に生きられた天明翁の気持ちは、今抱いている私の気持ちと同じものかもしれません。
例え自分には何一つ変えられないとしても、もし一人の絵描きが世界を変えるために、ひたすら考えて机に向かっていたのだとしたら、私はその心に共感せざるを得ません。
もし、それが仮に「自動筆記」でなかったとしても、この文書群には深淵な宗教哲学と、日本神話への鋭い慧眼を感じます。
ただ、そもそも人間に「神」が降りて、その才能に「神の力」を与えるとしたら、本当に神が存在し才能に現象として現れるとしたら、天明氏の「創作」もまさに神業と言えるのではないでしょうか。
この神示が創作だろうと、本当に神の啓示だとしても、私はその奥に「天日月神」の実在を感じざるを得ません。
私の結論としては、やはり何らかの形で「神」が関わっていると思いますし、仮にそれを否定する理由があるとしたら、まず「神は存在しない」ということを証明しなくてはならないはずです。
それゆえ私は「日月神示」に確信を抱いており、この啓示の解読を通して、人々や来たる未来のために、周知を広げていきたいと思うのです。